[演劇] ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』 NTライブ

[演劇] ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』 NTライブ TOHOシネマズ日本橋 12月13日

(写真↓は、プレイハウス・シアター外観、そして第1幕)

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ジェイミー・ロイド演出、ジェームズ・マカヴォイ主演で、2019年、ロンドンのプレイハウス・シアターで上演。1882年開業、収容数786人、映像で思ったが、割と小さな劇場。原作のロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)は5幕の大作だが、恋愛と友情というエッセンスの部分を、実質150分、2幕にまとめた。マーティン・クリンプによる英語の上演台本が素晴らしい。原作も、詩人であるシラノは詩を語るが、本作は、全篇をラップの語りにして、韻(ライム)を踏んでいるので、とてもリズムカルで美しい。科白がすべて詩なのだ。役者がいちいちマイクを取るのは、歌手がラップを歌うイメージを重ねるためだろう。

 ところで、原作『シラノ』は、それはそれは美しい純愛の恋愛悲劇で、何といってもシラノその人の魅力が、この作品のポイントだ。フランスの雑誌がかつて行った「あなたに最も親しみのある文学的英雄は誰?」というアンケートに対して、男女とも回答は、シラノが一位、ジャン・バルジャンが二位、ダルタニャンが三位だった(岩波文庫『シラノ』の解説)。本作でシラノを演じたジェームズ・マカヴォイは、とてもセクシーで魅力的な男優だ。だが、鼻は大きくないし、付け鼻もしていない↓。

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本作は、第5幕以外はほぼ原作を踏襲しているが、科白はかなり変えている。原作は、愛するのは相手の肉体なのか魂なのかという対立が主題で、シラノは自分の巨大で醜い鼻に大きなコンプレックスをもっており、それゆえ、自分が密かに愛している従妹ロクサーヌを、親友のクリスチャンに譲る。ロクサーヌもまた、イケメンでセクシーなクリスチャンの肉体に惹かれて彼を愛するのだが、彼は愛の言葉をほとんど語れないので、彼女の愛を失いそうになる。それでシラノがラブレターを代筆するだけでなく、『ロミ・ジュリ』のバルコニーの対話のように、闇に隠れて、横にいるクリスチャンの代りにロクサーヌと会話してみせる。その結果、詩人シラノが発する愛の言葉があまりに素晴らしいので、彼女はクリスチャンに、「私はあなたの肉体ではなく魂を愛しているのよ、あなたがどんなに醜くなってもあなたを愛します」と言うまでになる。そう言われたクリスチャンは、彼女が愛しているのは、自分で気づいていないシラノであることを知り、絶望して、自殺に近い戦死をする。その後、修道女になったロクサーヌを15年間、シラノは友人として修道院を訪れ、慰め続ける。しかし15年後のある日、シラノは大けがをしたので、ロクサーヌが大切に持っている最後の手紙を読みたいと言う。しかし手紙をシラノが真っ暗闇で「読んで」いるので、実はシラノは暗唱していることにロクサーヌは気づく。過去のすべての手紙、そして暗闇の声はシラノだったのだ。だが彼女がそう気づいたとき、シラノは死に、終幕。(写真↓はロクサーヌ、クリスチャン、シラノ)

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原作の第5幕を、本作はかなり変えた。ロクサーヌは修道女になっていないし、「私はクリスチャンの死後、いろんな男と寝たわ」とシラノに言うから、原作の修道女ロクサーヌとはだいぶ違う。原作でも、ロクサーヌの「肉体ではなく魂を愛している」という発言を、シラノは疑っている。原作でも、愛の対象は肉体なのか魂なのかという問題の決着はついていない。本作の解釈は、愛の対象はやはり肉体だという方向だと思う。つまり、シラノは敗北したのだ。原作では、シラノの最期近くの言葉に「自分は、私心なき、恋の殉教者」とある。「殉教者」は、勝利者でも敗北者でもありうるだろう。劇作品『シラノ』の真の主題は、愛の対象が、ラカンのいう「大文字の他者」としての男性性/女性性なのか、それとも小文字の他者である「対象a」つまり肉体なのか、という難問であるように思われる。また本作は、原作の副主題でもある、表現の自由(作品への権力による検閲)の問題や、詩か散文かという文学表現の問題を、大きく前景化している点で、すぐれた構成と演出だ。

40秒の動画。

https://www.youtube.com/watch?v=bJOVgVgy0T4