[演劇] 宮本研『反応工程』

[演劇] 宮本研『反応工程』 新国立劇場 7月21日

(写真は舞台、九州にある三井化学工場で、ロケットの燃料を作っている、知識階級といえる旧制高校生たちが学徒動員された若い工員たちと、初老の小卒たたき上げ職工たちが仲良く一緒に働いている)

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宮本研は『美しきものの伝説』以来、観るのはこれが二作目だが、1958年の本作も演劇作品として傑作中の傑作だ。戦後まもない頃に書かれたのではない。戦争体験や戦争責任の問題を深く捉え直すのにはそれなりの時間を要するのだ。本作が焦点を当てているのは、戦争の只中にいる当事者は、自らが置かれている客観的状況をよく認識できない、そしてまた、戦争を体験しない世代は戦時中の人々の内面的心理をよく理解できないという、二重のギャップである。本作が何より優れているのは、1945年8月5日、8日、10日、そして1946年3月の、工場の同じ作業室に、時空を設定したことである。広島と長崎の原爆投下を知り、しかし敗戦の15日が迫っていることはまったく知るよしもない深刻な状況と、翌年3月、戦争体験を十分に内面化できないうちにGHQの命令で一気に「民主化」に走り出している職場の滑稽な様子に焦点を絞っている。(写真↓は、主人公の旧制高校生の田宮と、たたきあげ職工・荒尾の娘の正枝、二人に恋が芽生えるが、正枝は終戦直前に直撃弾で即死、12日に入隊した田宮はそれを知らなかった)

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8月5日、8日、10日の時点で、多くの工員が「この戦争は負けだ」と内心では分かっているが、口には出せない。会社も、軍需品ではないインジゴ(三井化学の主要生産品)の機械を動かし始めるなど、終戦を意識して対応を取り始めているふしがある。しかし誰も、あと5日で終戦とは夢にも思わず、米軍の投下ビラなどから判断して、9月頃か、遅くとも年内だろうと思っている。これらの状況認識をもとに、自分はどう行動すべきか各自が考え始めているのだが、しかし一方では、勝ち負けとは別に、家族や同朋たちが戦い死んでいっている状況で、自分だけ逃げるのは間違っている、あくまでこの戦争戦うべきだ、と本気で考えている者もいる。それが互いに分かり、みな非常に苦しんでいる。

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群像劇だが、もっとも重要な人物は、旧制高校生の田宮、そしてかなりのインテリである正社員の太宰、たたき上げ職工の荒尾、この三人だろう。太宰は敗戦を確信しており、それを田宮にだけは口にする。太宰は田宮にレーニン帝国主義論』を貸したが、田宮がうっかり作業室の机の上に置き忘れたので、憲兵に見つかり、田宮は尋問を受ける。彼は「自分の本である」と嘘を主張して、逮捕されそうになる。太宰は、本が太宰のものであることを知る恋人の正枝に「太宰さんの本だと言ってください」と懇願され、彼は憲兵に自首する。結局、田宮は入隊したが3日で終戦、太宰は1か月の入獄で済んだ。しかし二人がそのことを知るのは(正枝の爆死のことも含めて)翌年の3月なのだ。8月10日で職場はみな散り散りになってしまったので、もっとも近い距離にいる当事者自身が相手のことを知らない。「戦争に負ける」ということが当事者たちにとってどういうことなのか、それがリアルに提示されている。本作は、かなり難解な思想劇なのだが、説得力ある舞台を作れたのは凄いと思う。作品を深く読み解いた演出の千葉哲也、そして完全オーディションで参加した無名の若い俳優たちを讃えたい。

(写真↓は、田宮と太宰、そして舞台、憲兵が手にしているのが『帝国主義論』)

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今日の絵(12) 7月前半

 [今日の絵] 7月前半

 1 Velazquez : The Needlewoman, 1635~43

ベラスケスの「編み物をする女」は未完成で、頭や顔は完成しているが、手や指は描きかけだ、しかし、前方に傾いている体、さらにうつむいている顔は、しっかりと指先を見ている、指先を見るぴーんと張りつめた視線が空間を引き締め、編み物に没頭している雰囲気がよく伝わる

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2 Vermeer : レースを編む女、1670

この絵は、フェルメールの絵としてはもっとも小さく、24.5×21㎝、指先でとても繊細な作業をしていることが分かる、フェルメールに限らずどの画家が描く「編み物をする女」も、自分の指先を見詰めており、指先とそれを一心に見詰める張りつめた視線が絵の核心である、それに対して左側の流れ出るような糸は張りつめていない

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3 Anker : 編み物をする若い娘, 1884

アンカー1831~1910はスイスの画家、この絵は自分の娘と思われるが、小学生くらいだろうか、真横から見上げるような視点なので、指先を見ている眼そのものが描かれている、緊張した視線だが、左腕に掛けた小さな籠が可愛らしい、梨も置いてあって、編み物を楽しんいることが分る

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4 Benson : The Sunny Window, 1919

タイトルは「夏の窓辺」だが、ベンソン1962~1951の娘エレノア1890~?と思われる女性が編み物をしている、逆光の構図が素晴らしく、衣服の模様と編んでいる布地の薄く透ける感じが、彼女を優しい光で包んでいる、影になっているにもかかわらず、しっかり開けた眼が指先を凝視している

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8 Artemisia Gentileschi : Saint Cecilia as a Lute Player,1620

楽器を持つ姿は、画家が好んで描く主題、弾いている場合と、ただ持っている場合と二種類あり、これは前者、最初の本格的女性画家といわれるジェンティレスキの絵、カトリックにおける音楽家守護聖人である聖セシリアリュートを弾いている、その視線からして彼女は天国に向かって弾いている

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9 Hals : Boy with a Lute, 1625

デカルト肖像画で名高いフランス・ハルスの描く人物は、表情が生き生きしており、特に笑顔がとてもいい、この絵も、少年のちょっといたずらっぽい感じが分る

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10 Manet : 笛を吹く少年、1866

この絵はマネの息子といわれているレオンの可能性が高い、事実上背景がないことで名高い絵だが、笛は彼の身体の一部になっている、ピアノは別として多くの楽器は弾かれるとき身体の一部になり、楽器が音を出すというより、楽器と一体になった身体が音を出すという感じになる、この絵では、笛を吹くことによって身体全体にすばらしいバランスと調和が実現している

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11 Boldini : ギター弾き、1873

ボルディー二の描く人物画は、身体が鮮やかな力動感をもっている、この「ギター弾き」も、足をわずかに突っ張っているギター弾きの女の横顔と、膝を抱えて聴いている闘牛士の男の、体勢と表情がいい、二人は恋人か、身体を含めた部屋のすべての情景が視覚的な音楽になる

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12 Perry : A Young Violoncellist, 1892

Lilla Cabot Perry (1848–1933)には、Margaret (1876)、Edith (1880)、Alice (1884)の三人の娘があり、みな楽器を弾く、これは次女のEdithだろう、ペリーの描く娘たちは、母親だからこそ分る表情の細部が描写されており、この絵は、モデルにされてやや緊張している

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13 Nikolay Bogdanov-Belsky : Young Musician, 1920

ボクダノフ-ベルスキー(1868~1945)はロシアの画家、農村の子どもたちを生き生きと描き、教室の光景など優れた絵が多い、これは楽器を弾いている少年、素朴な楽器のようだがタイトルは「若い音楽家」、友達に聴かせているのだろう、眉間に力が入って緊張している

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14 Danielson-Gambogi : Self-portrait, 1899

エリン・ダニエルソン=ガンボージ(1861~1919)はフィンランドの女性画家、家族の絵をたくさん描いた、これは38歳のときの自画像、13歳年下のイタリア人画家ラファエル・ガンボージとの結婚1年後だが、じきに彼は彼女の友人ドーラ・ヴァフルルースに浮気して結婚は破綻

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15 Mattise : Woman with a hat, 1905

マティス1869~1954が2か月の交際で結婚した妻アメリを描いた。彼女は二歳年下。荒々しいタッチと強烈な色彩に、彼の画法は「野獣のようだ」と非難されたが、高く評価する人々もいて、この絵が「野獣派」のデビュー作になった、衣服の模様と帽子が力強く呼応する

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16 Macke : 妻の肖像、1909

アウグスト・マッケ1887~1914はカンディンスキーらの前衛美術運動「青騎士」グループで活動、27歳で第一次大戦で戦死、表現主義とも抽象絵画とも違う独自の画風で知られる、この絵はパリに学んで直後に結婚した妻エリーザベト、二人とも20代の初期で若く、姿は端正で瑞々しい

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17 Werefkin : Self-portrait 1910

マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860~1938)はロシアの画家、1909年にはカンディンスキーらとともに「ミュンヘン新芸術家協会」を創立、マチスと会ったのは1911年だが、この50歳の自画像はマチスの影響を感じさせる

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[演劇] エウリピデス『メデイア』

[演劇] エウリピデス『メデイア』 NTライブ シネリーブル池袋 7月14日

(写真は舞台↓、二階は王の宮殿での結婚式、一階はメデイアの住居、舞台の作りは非常にうまい、原作のメデイアは四分の一ほど神の血をひく王女で、伝承では魔女だが、本作では現代の「普通の女」に造形される、そして乳母) 

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2014年9月4日のナショナルシアター上演だが、メデイアを演じたヘレン・マクロリーが今年の4月に急逝したので、映像上映は彼女の追悼の意味もあるのだろう。原作の怖い雰囲気がよく出ており、コロスをコンテンポラリーダンスにしたのも効果的だ。メデイアも、黒人俳優が演じるイアソンも、知的な人物に造形されている。ほぼ原作通りだが、原作では終幕、ヘリオス神(メデイアの祖父)が派遣したと思われる龍車(黄金の二輪車)が空からメデイアを迎えに来て、メデイアは子供の死体とともに龍車に乗って高笑いしながら空に消えてゆく。そこはどう舞台化されるのだろうと期待していたが、本作では、メデイアが「今、ここよ」と叫んでも龍車は来ない。子供の死体をかかえたメデイアがよろよろと倒れそうにふらつきながら舞台の奥に消えて終幕。原作のようにアテナイまで逃げられるとは、とても思えない。子殺しは罪なのに罰せられない、というのがエウリピデスの(異例な)メッセージだが、この終幕は『メデイア』全体の解釈に関わる大きな改変だ。(写真下は、二階はメデイアが送った毒入りドレスを着て踊りながら焼き殺される王女クレウーサ[原作には登場しない]と、一階はそれを心待ちにするメデイア)

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 原作を読み返してみても、なぜメデイアは裏切った夫イアソンではなく二人の子供を殺すのか、その理由は分からない。たぶん、今までのすべての上演でも、その理由についての説得的な解釈はないのではないか。プログラムノートに、ギリシア演劇研究者の山形治江が、子供を失うという痛みをイアソンにも共有させることで二人が愛の絆を回復するという解釈を提出しているが、いくらなんでも牽強付会ではなかろうか。ただ、マクロリーがインタヴューで言っているように、王クレオンの支配するコリントスにやってきた二人は、どちらも「よそ者」であり、「自分の居場所がない」という孤独が極限に高まっていたことは、イアソンの浮気と王女クレウーサとの再婚、そしてメデイアの子殺しを引き起こした理由とも考えられる。(写真下は、コンテンポラリーダンスを踊るイアソンと王女クレウーサ、そしてコロス)

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公開予告編の映像が

https://www.youtube.com/watch?v=KR9zX0Ph7lI

[演劇] ムワワド『森 フォレ』

[演劇] ムワワド『森 フォレ』 世田谷パブリックシアター 6月7日

(写真は俳優たちと人物相関図、この俳優たちが一人四役くらい演じて、8世代にわたる140年間の家族の愛憎が描かれる、登場人物の多さという点では、『失われた時を求めて』の演劇版かもしれない、休みを含めて3時間50分だったが、よく収まったと思う)

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『炎アンサンディ』『岸リトラル』に続く第3作目。最初の二作は「オイディプス」や「イリアス」などのギリシア悲劇と重ねられているが、『森フォレ』は「オレステイア」と重ねられている。アトレウス家一族の血で血を洗う憎しみと抗争が、生き残った最後の世代エレクトラオレステスの愛と和解によって終焉するのと同様に、1870年代に始まるドイツの軍需実業家ケレールー一族の八世代の子孫たちが、普仏戦争、第一次第二次大戦という三つの戦争とベルリンの壁を経て、最後の世代の20歳の女性ルーと彼女を助ける青年古生物学者ダグラスとの愛によって、憎しみの歴史が閉じられる。エレクトラと同様、憎しみと怒りだけが自己のアイデンティティであったルーが、死者たちとの応答を通じて、愛の主体としての女性へ成長してゆく。人間は、憎しみによって自らを破壊するが、生者と死者の倫理=「応答責任」(レヴィナス)を通じて、生者は死者から励まされ、自らを更生して生きてゆく。ムワワドの「約束の血」四部作は、憎悪と死の戦場を生きる我々人間たちの、愛の贈与、生命の贈与の物語なのだ。それは、『オレステイア』、『リア王』、ワーグナー『指環』、近松心中天網島』などが、みな根源的な悲劇であるように、憎しみと死によって押しつぶされてしまう人間は、もがき苦しみながらも、ギリギリの地点で踏みとどまり、愛に希望を託して、否定を肯定に転化させる。有限な生を生きる我々において、愛は、受容されたり拒絶されたりしながら変容し、変容しながらも、木霊のように他者の愛に反映し、伝染し、生きながらえてゆく。

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(写真↑は左から、ルー、ダグラス、リュス、リュディヴィーヌ、サラ)
8世代の家族の歴史ということになっているが、しかし本作の家族は、一番肝心なところで血が繋がっていない。フランスのレジスタンスの同士であり親友のサラとリュディヴィーヌ(フランス語で「光の女神」)は、ゲシュタポに捕まる寸前、身分証明書の写真を張り替え、サラは生き延びるが、リュディヴィーヌは捕まりアウシュビッツで殺される。しかしサラの産んだばかりの赤ん坊は、あるパイロットに託され、カナダに渡り、それがルーの祖母リュスである。リュディヴィーヌはケレールー一族の末裔だが、サラは彼女の親友ではあっても、血の繋がりがはない。リュスはリュディヴィーヌの子と思われていたが、最後に、血の繋がりはないことが明らかになる。ゲシュタポに追われたサラとリュディヴィーヌの写真交換の場面は、本作のクライマックスである。リュディヴィーヌは自ら死ぬことによってサラに愛を贈与し、それはサラの子が生き延びるという点で、生命の贈与でもある。つまり、血の繋がりのないリュディヴィーヌとサラの間で、生命が贈与されるのだ。男女の性愛だけが生命を生み出すのではなく、女性同士の友愛も生命を生み出す。ムワワドの四部作「約束と血」における「約束」とは、「愛の贈与」のことである。リュディヴィーヌは男性器と女性器の両方があるインターセックスなので、子を産むことはできない。だが彼女はサラとの友愛によって、愛と生命を贈与している。ゲシュタポが迫る緊迫した状況での、リュディヴィーヌ/サラのやり取りは、本当に崇高で、私は涙が溢れた。そして、『心中天網島』のおさん/小春を思い出した。生が死と逼迫するギリギリの状況においては、愛が主体として前景化するのは、やはり女性なのだと思う。

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演劇は、さまざまな主題を表現できるが、なかには神話化しなければ表現できない、リアリズムだけでは表現できないテーマもある。それは本作の人名からも分る、すなわち、ルー(狼)、エメ(愛される者)、リュス(光)、リュディヴィーヌ(光の女神)、サラ(アブラハムの妻)etc。タイトルは「森フォレ」、すなわちベルギー南部に実在する「アルデンヌの森」も、神話としての表象だ。そこには動物たちが人間とともに住んでいるが、この「森」は、人間における「性」の暗い契機、動物的側面の暗喩なのだろう。本作は、それぞれの幕の副題を見ても、「エメの脳」=エメの子宮から胎児が脳に移動した脳腫瘍、歯をすべて折られた「リュスの顎」、インターセックスである「リュディヴィーヌの性器」、不倫の子を宿す「オデットの腹」など、おどろおどろしい肉体性がタイトルになっている。これはたぶん、「森」が人間の「性」の動物性を暗喩しているように、愛の贈与、生命の贈与も、おどろおどろしい肉体性を介さなければ実現しないということだろう。おどろおどろしい肉体性の中から、このうえなく崇高な愛が立ち現れる。これこそが、人間という動物の最終真理なのではないだろうか。本作には、リアリズムの会話をしていた人物たちが、とつぜん詩をゆっくり口ずさむように発話するシーンが幾つもあるが、このようなシニフィアンの転調も、真理の顕現なのではないだろうか。あと前二作と同様「森」においても、なぜか女たちは男たちに比べて存在感が強い。舞台の俳優は皆すばらしいが、文学座の栗田桃子は、『炎アンサンディ』のジャンヌ、『岸リトラル』のジョゼフィーヌ、『森フォレ』のエメと、最重要の女性をずっと演じている。『森フォレ』では、現代版エレクトラのルーが目立けれど、その存在そのものに強い衝撃感があるという点では、エメ(フランス語の「愛される人」)には及ばない。おそらくジャンヌもジョゼフィーヌもエメも、アンティゴネやコーディリアやコンスタンス修道女のような、神話的女性=「愛のアレゴリー」なのだろうが、少年のような少女の面影をもつ栗田桃子は非常に適役だ。リュディヴィーヌを演じた松岡依都美もそうだが、「愛のアレゴリー」は、アフロディーテのような官能的な美女ではなく、少年のような少女のような中性的な女性性なのかもしれない。誰がやっても出来る役ではなく、私が知っている僅かな女優でいえば、たとえば伊東沙保がやってもよいのではないかとも思った。

 2分間の動画が。

www.youtube.com

今日のうた(122)

[今日のうた] 6月ぶん

(写真は石田柊馬1941~、現代川柳の領導者の一人)

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  • ややこしく体を使うことになる 敵と味方とうさぎが殖える

 (関口真司『ねむらない樹vol.6』2021年2月、コンピュータ・ゲームの臨場感だろうか、画面上の自己の身体を巧みに動かして戦い、「ややこしく体を使って」戦っているうちに、「敵と味方とうさぎ」がどんどん殖えてゆく) 6.1

 

  • ペアルックで歩くカップルどこまでをペアルックのまま歩くのだろう

 (手取川由紀『ねむらない樹vol.6』2021年2月、「ペアルック」「歩く」「カップル」と、言葉の響きとリズムが快い、たしかに「カップルがペアルックで歩く」のも、TPOがあるべきだろう) 6.2

 

  • どこからか荷物が届く逆光の配達員に君の名を告ぐ

 (嶋稟太郎『ねむらない樹vol.6』2021年2月、彼女のところに泊まった翌朝、正午近くに宅配便のチャイムで起こされたのだろう、彼女の代りにあわてて玄関に出ると逆光が眩しい、いかにもありそうな現代版「後朝の朝」か) 6.3

 

  • 良い寿司は関節がよく曲がるんだ

 (暮田真名『はじめまして現代川柳』所収、作者1997~は若い女性、着眼点がユニークだ、そもそも寿司というものは、なんか海老に似ていないか、ひょいとつまむと微妙に曲がる、まるでいくつも関節があるかのように) 6.4

 

  • 正確に立つと私は曲がっている

 (佐藤みさ子『はじめまして現代川柳』所収、作者1943~は「川柳杜人」同人、「私」だけでなく、おそらく誰もがそうだろう、人間の身体は完全性から多少のズレをもっているし、精神についても同じことがいえる、「川柳は警句に似ている」と吉田精一) 6.5

 

  • 満月の猫はひらりとあの世まで

 (海路大破(うみじたいは)、『はじめまして現代川柳』所収、作者1936~2017は「川柳展望」「川柳木馬」などの創立会員、「満月」といえば普通は「兎」だが、「猫」なのがユニーク、しかも満月に飛び込んで「ひらりとあの世に」行ってしまった) 6.6

 

  • 水平線ですかナイフの傷ですか

 (石田柊馬『はじめまして現代川柳』所収、作者1941~は現代川柳の領導者の一人、この句はシャープで厳しい、誰かの抽象画なのか、一本の線が描かれているが、「水平線」のようにも「ナイフの傷」のようにも見える、いや、たぶん「心の傷」だろう) 6.7

 

  • 仰ぎ見る樹齢いくばくぞ栃(とち)の花

 (杉田久女、とち(橡)の木はとても樹高が高い大木だ、花は白い地味な花だが、なにしろ樹が大きいので、一斉に咲いているのを「仰ぎ見る」のは独特の趣がある) 6.8

 

  • 千年の松も落葉は小さくて

 (中村草田男、「松落葉」は夏の季語、松は常緑樹だが同じ葉がずっとあるわけではなく、初夏の頃、葉の一部が茶色になって落ち、緑の新しい葉と交代する、大きな松の下にたくさん積もっている松落葉だが、一つ一つは針のように細くて小さい) 6.9

 

  • 酔顔(よひがほ)に葵こぼるゝ匂ひかな

 (向井去来、おそらく日が長い今頃の夕方だろうか、「座敷では早くも主人が友人たちと飲み始めて赤ら顔になっている、庭先では立葵の花が夕陽を受けて色鮮やかに輝いている」、我が家にはないけれど、ご近所では立葵が美しい) 6.10

 

  • 二人して結びし紐を一人して我れは解き見じ直(ただ)に逢ふまでは

 (よみ人しらず『万葉集』巻12、恋人たちは共寝の後、互いに下着の紐を結び合って愛を誓う、次に逢う時に「二人して」紐を解き合おうねと、「一人して解く」は、別の異性と寝るの意、『源氏』「夕顔」に本歌を踏まえた歌がある) 6.11

 

  • 下にのみ恋ふれば苦し玉の緒の絶えて乱れむ人なとがめそ

 (紀友則古今集』13、「外に現れないように理性で感情を押さえつけ、感情という心の底でのみ恋するのは、ああ苦しい、紐を切って玉が散り乱れるように、理性なんか捨てて、一目はばからず取り乱したいよ」) 6.13

 

  • かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人(よひと)定めよ

 (在原業平伊勢物語』69段、伊勢神宮斎宮から「貴方と一夜過ごしたが・・」と歌が来て、それへの返し、「貴女も僕も真っ暗な闇に迷った一夜でした、夢かまことかは第三者に決めてもらいましょう、僕には分らない」) 6.14

 

  • あはれなる心の闇のゆかりとも見し夜の夢をたれか定めむ

 (藤原経公『新古今』巻14、昨日の業平の歌を受けて、伊勢神宮斎宮の立場になって返している、「私を恋の闇に迷わせたのは貴方でしょう、あの一夜が夢かまことか、第三者に決めさせるのではなく、貴方が決めてよね」) 6.15

 

  • 尋ぬべき路こそなけれ人しれず心は馴れて行き帰れども

(式子内親王『家集』、「貴方に逢いたいけれど、貴方のところへ行く路が分かりません、私の心だけは、貴方にも他の誰にも知られずに、密かに貴方のところへ何度も行き帰りして、馴れているのにね」) 6.16

 

  • 馴れてのちつらからましに比ぶればなき名はことの数ならぬかな

 (輔仁親王『千載集』巻12、「(僕が文通しているだけのあの人と恋の噂があるらしいが)、今僕は別のある女性と恋をしている、そちらは捨てられるかもしれないので、とても辛い、それに比べれば浮名なんて全然」) 6.17

 

  • 巣立つ日や尾長の母の声やさし 

(植村恒一郎、二階の私の書斎の窓近くの木蓮に、オナガの巣があり、巣の中ではオナガの母鳥は、いつもの「ギエーッ」ではなく、「キュイー」と優しい声を出します、雛たちは「キュイ、キュイ」と可愛らしい小さな声で応える、そろそろ巣立ちでしょう) 6.18

 

  • 紫陽花や身を持ちくづす庵(いほ)の主

 (永井荷風1927、荷風の6月26日の日記の中にある一句、いかにも荷風らしい句だ、「身を持ちくづす庵の主」とはもちろん自分のことだろう) 6.19

 

  • 薔薇を撰り花舗のくらきをわすれたる

 (橋本多佳子1936『海燕』、薔薇の花はそれ自身が光を放つように明るい、「花屋の店舗の、奥の暗いところで、薔薇を撰んでいる私、薔薇があんまりきれいなので、部屋の暗さを忘れてしまった」) 6.20

 

  • 夏至今日と思ひつゝ書を閉じにけり

 (高濱虚子1957、夕刻遅くまで一心に書を読んでいたのだろう、明るいのでもうそんな時間とは思わなかったが、「ご飯ですよ」と声がした、「そうだ、今日は夏至なんだ」と思いながら書を閉じる)6.21

 

  • 抱く吾子も梅雨の重みといふべしや

 (飯田龍太1951『百戸の谿』、「吾子」は、前年に生まれて一歳になったばかり次女純子か、たぶん毎日抱いている作者、「今日は吾子がなんだかちょっと重く感じる、梅雨が降っているせいかな、いやちょっと大きくなったんだよね」) 6.22

 

  • 真菰(まこも)刈る童(わらべ)に鳰(にお)は水走り

 (水原秋櫻子『葛飾』1925、句群「水郷の夏」の冒頭句、「真菰」は背の高い水草でむしろ等に編まれる、「鳰」は水鳥のカイツブリ、真菰を刈っている子供の横を水鳥がスーッと「水走ってゆく」、秋櫻子らしい絵画的で美しい句) 6.23

 

  • 雷(らい)の音のひと夜遠くをわたりをり

 (中村草田男『長子』1936、梅雨時にはこのようなことがよくある、夜中のかなり遅くまで、遠くに雷の音がしている、雷は近くには来ない、外を見ても遠くでチラッと光るのがたまに見えるくらいだ) 6.24

 

  • 蛞蝓(なめくぢり)急ぎ出でゆく人ばかり

 (石田波郷『風切』1943、「門にナメクジがいる、ゆっくりゆっくり動く様が面白くて、立ち止まってじっと眺めるが、そういう人は他にはいない、皆急いで通り過ぎてゆく、忙しいんだね」、そういえば最近はナメクジをあまり見ない気がする) 6.25

 

  • 梅雨の間の夕焼誰ももの言ひやめ

 (加藤楸邨『颱風眼』1940、「うっとうしい梅雨が続いている、皆でワイワイしゃべっていたが、ふと窓の外を見ると、美しい夕焼けになっているのに気付く、皆、話すのやめて思わず眺めてしまう、あたかも虹が出た時のように」) 6.26

 

  • 六月の夢にも黄砂がふいていてきみの寝息がたまにつまづく

(榊原鉱『悪友』2020、「彼女は隣でスヤスヤと快い寝息をたてて眠っている、その表情からすると、きっと夢を見ているんだ、今日一緒にニュースで見た黄砂がふいているのかな、寝息がたまにつまづくから」) 6.27

 

  • 遠い空が焼けているのはもう言わず背のかたむきにクッション入れる

(江戸雪『空白』2020、父を看病し死を看取った歌群の一つ、「病室の窓に美しい夕焼けが見える、前はいつも「あ、夕焼けだね」と言った父は、もう何も言わない、私は父の背もたれにクッションを入れて姿勢を調整する」) 6.28

 

  • 雨降れば雨の向こうという場所が生まれるようにひとと出会えり

小島ゆかり『展開図』2020、「ある雨の日、大通りの向こう側に思いがけず旧知の友人を認めた、本当に久しぶりに偶然会えたのが嬉しい、もし雨が降らなければ二人とも今ここにいなかったから、出会わせてくれた雨に感謝」) 6.30