『子供が減って何が悪いか』(2)

[読書]  赤川学子どもが減って何が悪いか!』(04年12月 ちくま新書)


子育て支援」の根拠はどこにあるのか? 子供は公共財か私的財か?


(1) 本書の良いところは、「子供が減ってもいいじゃないか。それがどうした!」と堂々と開き直っている点である。少子化は先進国共通の現象であり(台湾や韓国なども)、一人当たりのエネルギー消費量は先進国は圧倒的に多いので、地球への環境負荷の点からも、先進国の人口減はむしろ好ましい。先進国の住民は生活程度を落とすことを好まないので、エネルギー消費総量を規制するには、人口減しかない。また途上国では、食料問題や経済成長という観点から人口増を押さえる必要がある。いずれにせよ少子化は、地球的規模では「善」であるだろう。


(2) にもかかわらず、パラサイトシングルやディンクスは「子育ての苦労をしない、ただ乗りの連中」と非難されることがある。だが、年金や介護については、積立方式として考えれば、彼らの老後の費用は、自分が働けるうちに自分で稼いだものだから、他人の世話にはなっていない。配偶者控除や年金の第3号被保険者、そして保育所や公教育(私大を含む)への財政支援は莫大な額であるから、シングルから既婚者へ、そして子供を持たない者から子供を持つ親へと大規模な所得移転が行われている。だから、シングルやディンクスは「ただ乗り」を批判される筋合いはないので、もっと胸を張っていいはずだ。赤川氏は(そして評者も)そう考える。


(3) ところが、これで議論が終わるわけではない。「親から命をもらったお前が、自分は子供を作らないのは身勝手だ。ご先祖さまに申し訳ないではないか。シングルやディンクスは、肩身の狭い思いをしてうつむいているべきなのに、大きな顔をしているのはムカつく」と考える人がいるからだ。評者は、この「身勝手論」は誤りだと考えるが、それへの決定的な論駁もまだ手にしていない。そこで赤川氏に大いに期待していたが、彼の議論もそこはまだ弱い。「子供が減ってもいいじゃないか」という主張は、「叫び」「咆哮」のレベルに留まっている。


(4) 赤川氏は、親の観点からは「子供は私的財」であり、公的な子育て支援は正当化できず、子育て支援の根拠は「子ども自身の人権」にしかないと考える(p182)。この視点は傾聴すべきものがあるが、やや唐突であり、女性のライフスタイルとの関連をまったく断ち切るという欠陥がある。「子供の為には母親が育てるのが一番だから、女は家庭に戻れ」という論者を喜ばせるし、「子供の人権」のみを強調することは、親のライフスタイルについての中立な主張とはいえない。「完璧に子供を育てられる人」以外は子供を産んではいけないという結論になるからだ。


(5) 赤川氏の議論は、子供が公共財ではなく私的財だという主張の基礎付けがまだ弱い。伝統的社会では、農業や自営業などで働き手としての子供を必要としており、「親の職業を継ぐ」のが普通だった。「家」が大切にされたのもその前提があるからであり、年金も公的介護もなかった時代は、子供に養ってもらう以外に自分の老後の生活は不可能だから、この意味で、子供は完全に私的財だった。だが、年金制度が整備され、親の職業を継がないのが普通になった先進国では、前提は大きく変わる。「子供は私的財」かどうか自明ではない。


(6) 「子供を産み育てることは、自分の自由な人生の障害だから、むしろ損な選択だ」という考え方は、現代的な新しい発想である。老後を自分の子に養ってもらわなくても、年金を積み立てることによって、自分の老後の面倒を見る他人を雇うことができるからだ。応分の年金を払う限り、これが非難される理由はない。だが、この生き方を「すべての人が採用する」こともできない。次の世代が一人もいなくなっては困るからだ。ここから「子供は公共財」という考えが生まれ、シングルやディンクスから子持ちへの所得移転が正当化される。とはいえ、ずっと私的財だった子供が急に公共財になるという、思考の転換も簡単ではない。また、「子を持つ喜び」があるならば、子供が私的財という面はなくならない(そもそも子持ちは、内心ではシングルを「かわいそうな人」と思うこともある)。メリットがあるなら子育ては損ではないし、それへの援助はいらないわけだ。「負け犬」か「勝ち犬」かは簡単に決められる問題ではない。結局、「シングル身勝手論」が出てくるのは、「子供を持つのは損」という人類史的に新しい考え方の前で、我々は「子供を持つことの意味」についてまだ合意がないからだと思われる。赤川氏の本は、そのタイトルも含めて、非常に大きな問題提起を行っている。