新国『コジ・ファン・トゥッテ』

[オペラ] 3.31 モーツァルトコジ・ファン・トゥッテ』  新国立劇場


現代では名作とされているが、初演以来約一世紀の間は人気がなく、あまり上演されなかったといわれる。筋が荒唐無稽だからか? 二人の男性が自分の婚約者の「女性の貞節」を試すために、戦争への出征と偽って姿を消し、代わりに外国人に変装して現れ、婚約者である二人の姉妹を誘惑する。はじめは抵抗した二人は、すぐ「陥落」する。初演当時は、「まったくひどい! 音楽が良いのも第二幕だけ」「この世でもっとも馬鹿げたもの」という酷評だったという。


だが、『フィガロ』と『ジョバンニ』は「男の浮気」が主題であるのに対して、『コジ』が「女の浮気」を主題にしているのは、時代を先駆けた先見性というべきだろう。ベートーヴェンが「この作品は軽薄すぎる」と怒ったと言われるが、フェミニズムの観点からは、違って見えるだろう。今回の演出家はドイツ人の女性。二人の男の演技に女性が騙されるようにみえて、一番傷つくのは「女性の貞節」を信じていた二人の男である。「コジ・ファン・トゥッテ(=女はみんなこうしたものさ)」というタイトルは、女性蔑視のようでいて実は、女性の浮気にだけ厳しい男性社会を告発しているとも取れる。


ある意味では、『フィガロ』『ジョバンニ』『コジ』のダ・ポンテ三部作は全部フェミニズム作品とも言える。プログラムノートに「ほとんどのオペラで、モーツァルトは常に女性の味方です」と演出のコルネリア・レプシュガーは書いている。『フィガロ』『ジョバンニ』の浮気男は貴族なので、階級関係と重ねる批判ができたが、『コジ』の主人公は市民階級で対等な関係だから、女性の浮気を知っても男は何もできない。男性の権威も地に堕ちる。その点はチェホフに似ており、性愛と権力関係というフーコー的主題の先駆的作品なのだ。プログラムノートに書いている林真理子がそうだが、女性の観客は、すぐ陥落する姉妹を見て「女を馬鹿にしている」と怒り、男性は「浮気する女性」の前に無力な男を見せられて不愉快に思う。19世紀に人気がなかったわけだ。アドルノが『コジ』を激賞していると聞いたことがあるが、なるほどありそうなことだ。


突出したアリアが少なく、重唱の美しさが印象的なのは、人物の「水平的関係」とも関連するのだろう。女性の浮気を積極的に肯定し、二人の姉妹を指南する、女中のデスピーナのキャラクターが輝いている。偽医者に化けてメスメルの磁気療法を駆使するなど、面白い役だ。演じた中嶋彰子はとても良かった。前に見た『フィガロ』のスザンナも彼女だったが、キャラが合うのかもしれない。スタイリッシュで洗練された舞台には好感がもてる。なのに観客の入りが悪いのは、『コジ』の人気がいまいちだからか。