新国『コジ・ファン・トゥッテ』

charis2011-06-05

[オペラ] モーツァルトコジ・ファン・トゥッテ』、新国立劇場

(写真右は、キャンプ場の事務所、下は、キャンプ場内の池とキャンピングカー。池の縁に腰掛けたデスピーナ(中央)は両側の姉妹に「不倫しちゃおうよ」と煽りまくる。キャンピングカーは、たぶんそれでやって来た姉妹が「貞操を守る」ために引き篭もる防御的な空間として、効果的に機能している。)

弱冠34歳のダミアーノ・ミキエレットによる演出は、とても瑞々しく素晴らしいものだった。『コジ』は副題が「恋人たちの学校 La scuola degli amanti」であることからも分るように、"恋愛ゲーム"を主題とする作品で、若者たちが集まる夏のキャンプ場という設定は最適だ。回り舞台を活用して、キャンプ場の事務所、池、キャンピングカーという、三つの舞台が何度も循環する。円形の回り舞台の中央が小山になっており、そこに人が隠れながらうごめくので、"覗きの視線"が舞台上を縦横に交錯する。光り溢れる昼と、懐中電灯で人が動く夜との交替が素晴らしく、視覚的に非常に美しい。円形の回り舞台全体がキャンプ場なので、劇場1階席よりもむしろ2階以上の席から、舞台全体を上から見下ろす方が楽しめるのではないか。


2002年ベルリン国立歌劇場のデリス・ドリエ演出は、70年代アメリカのヒッピー風だったし、06年ザルツブルク音楽祭のヘルマン夫妻演出は、現代演劇風の何もない空間だった。05年新国立劇場のレプシュレーガー演出も、ほとんど舞台装置のない抽象空間だった。それらと比べても、今回のミキエレット演出は出色だったと思う。05年の新国上演では、ドラベッラ役のツィトコーワとデスピーナ役の中島彰子が素晴らしかったが、『コジ』の実演が東京でこんなに楽しめるのは嬉しいことだ。私は未見だが、09年ザルツブルク音楽祭のクラウス・グート演出、今年11年ライプツィヒ歌劇場ペーター・コンヴィチュニー演出もあるようで、『コジ』はブームなのだろうか。こちらも見たいものだ。


フィガロ』や『ジョバンニ』では、貴族と平民の対立が、『魔笛』ではメルヒェン的性格や近代家父長制おける女性性の抑圧が、それぞれ恋愛ゲームの独自性を形作っている。それに対して『コジ』は、もはや貴族は登場せず、完全な市民階級の恋愛ゲームになっている。だから舞台は、超歴史的な抽象空間であるよりは、具象性のある若者劇にした方がよいのだ。「恋人の貞操を試練にかける」という直截で大げさな課題は、たしかに古めかしいが、より一般性のある"性的欲望のゲーム"と考えれば、いくらでも面白い現代的演出が可能だろう。『コジ』を"女性蔑視"の作品とするのは表層的に過ぎる。試練にかける側の男二人はゲームの"主体"のように見えるが、いったん女性たちが浮気に傾くや否や一転して男たちが苦悩にのたうちまわるところが、むしろ見所ではないのか。"上から目線"がたちまち逆転される滑稽さこそが、面白いのだ。そうはいっても、"性的欲望のゲーム"を主題にしたオペラを、誰もが心から楽しむというわけにはいかないのかもしれない。恋愛歴のあまりなさそうなベートーヴェンは『ジョバンニ』や『コジ』を不道徳だとして毛嫌いしたそうだが、「恋人たちの学校」という副題は、性的欲望のゲームもまた成績上位の生徒と下位の生徒に分かれることを暗示しているのではないか。


今回の演出は、終幕も良かった。原作では姉妹が"反省"して和解したようになっているが、この演出では、全員が怒ったまま散り散りに別れてゆくことが行動で示される。この方が納得がいく。また、アルフォンソとデスピーナが恋愛関係にあるように描かれているのも上手い。二組の恋人たちの浮気を煽りまくったこの二人もまた、ゲームの勝者ではないのだ。アルフォンソは悄然として黙って去り、またデスピーナの終幕の科白はこうなっている。「夢だかなんだか分らないわ。おたおたして、恥をかいたわ。でもたいしたことはないわ。私をだましたのなら、私はもっと多くの人をだまし返してやるわ。」(写真下は、アルフォンソとドラベッラ、そして演出のミキエレット)