SPAC版『ドン・ファン』

charis2009-10-04

[演劇] ティルソ・デ・モリーナ原作『ドン・ファン』(SPAC=静岡芸術劇場)


(写真はすべてヨーロッパ公演。右は、従者スガナレルとドン・ファン[右]、下は舞台より。楽しく騒ぐ女たちと、少年のようなドン・ファン。)

コロンビア出身でフランス・スイスで活躍する演出家オマール・ポラスが、脚色・演出したユニークな『ドン・ファン』。ポラスがスイスで主催する劇団テアトロ・マランドロが2005年に行ったフランス語公演を、今回、日本人キャストによって、日本語で上演。とても面白い舞台だった。ドン・ファンの内面的性格が描かれるというよりは、全篇が、音楽と踊りと滑稽な仕草に溢れており、めちゃくちゃに楽しいドタバタ喜劇になっている。ドン・ファンは次々に女性をものにしては棄てるのだが、女性たちはいつまでも自分がドン・ファンに愛されていると錯覚し、私こそがドン・ファンの妻であると互いに争って大騒ぎするというのが、物語の大筋。ドーニャ・エルビラも含めて、どうも女性たちはドン・ファンその人を恨んではいないようで、最後まで女性たちはとても明るくお祭りのように騒ぐだけ。最後、ドン・ファンは石像のある墓地で雷に打たれて死ぬのだが、直接打たれる場面はなく、葛藤も苦悩もなく、実にあっさり終わる。


我々はモーツァルトドン・ジョバンニ』とモリエールドン・ジュアン』はよく知っているが、それ以外のドン・ファンのバージョンには接する機会がまずない。最初の作品は、スペインの修道僧(!)ティルソ・デ・モリーナが書いた『セビーリャの色事師と石の招客』(1630)であり、モリエールドン・ジュアンまたは石像の饗宴』(1665)までの35年間に、4人の別の作者によるバージョンがあり、モリエール以降も、コルネイユを経て、ゴルドーニ『ドン・ジョバンニテノリオ、一名浮気者』(1736)までの間に、8人の作家による別バージョンがある。結局、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』(1787)以前に、演劇版だけでも計15作品になる。ドン・ファンがそれだけ大きなテーマだったということだろう。


ティルソ・デ・モリーナの原作では、ドン・ファンはひたすら好色で女好きな男とだけ描かれており、無神論者の側面や、性格描写はほとんどない。モリエール版より筋が複雑で、物語は最初はナポリの宮殿から始まる。美貌のイサベラ姫の寝室、深夜真っ暗なところへ、姫は婚約者のドン・オクタビオがやってきたと思い込む。開幕は二人のいちゃいちゃから始まるが、姫は体を許した後で、相手がオクタビオではなく、ドン・ファンであることに気づきキャーッと叫び、宮殿は大騒ぎになる。ナポリ宮殿にはドン・ファンの叔父が高官として勤めているので、叔父は機転をきかせて、ただちにドン・ファンを逃がすが、婚約者のオクタビオもどういうわけかナポリから追放される。


ドン・ファンは故郷のセビリアに帰るが、同時に、ナポリを追放されたオクタビオセビリアにやって来る。セビリアの王はオクタビオに同情して、美貌の女性ドーニャ・アンナとの結婚を勧める。オクタビオがアンナと会う約束を取り持ったドン・ファンは、約束の時間を一時間ごまかし、オクタビオに化けて一時間先にアンナの寝室に行って、アンナを寝取ってしまう。要するに、お人よしのオクタビオが友人のドン・ファンに美女を二度も寝取られるという笑い話なのだ。今度は、ドン・ファンは、怒って駆けつけたアンナの父を殺す。その他、漁師の娘ティスベア(モリエール版ではマチュリーヌ)をものにしたり、農民の娘アミンタ(モリエール版ではシャルロッテモーツアルト版ではツェルリーナ)を口説いてものにする。アンナの父の石像が、ドン・ファンを訪れるのも同じ(その場でドン・ファンが地獄落ちするのがモーツァルト版、訪問のお礼に石像を訪れて雷に打たれるのがモリエール版)。


要するに、全体が徹底したドタバタの笑劇で、悲劇的要素がまったくないのだ。「そんなことをすると、死後罰せられるぞ」と諭されるドン・ファンは、そのたびに、「えっ、死後なんてずっと先のことじゃん、関係ないよ」とあっけらかんとしている。ドン・ファンはたぶん二十歳くらいの未熟な青年で、従者のスガナレルが年配で分別ある男性というのが、原作の作りなのだろう。女性たちがドン・ファンに対して怒っている様子がないところも、たとえばモーツァルト版と大きく違う。モーツァルト版は、原作からどんどん枝葉を落として、もっともシンプルな物語になっていることが分る。それだけに、エルビラや最後の地獄落ちなど、悲劇的要素が強くなったが、『ドン・ファン』は、本来、まったくのお笑い喜劇だったのだ。ドン・ファンモーツァルト版では、深みのあるキャラだが、原作では、何も考えていないアサーイ男、カルーイ男で、どうしようもなく未熟なイケメンというのが面白い。