モーツァルト『愚か娘になりすまし』

charis2008-10-12

[オペラ] モーツァルト『愚か娘になりすまし』、モーツァルト劇場公演、浜離宮朝日ホール


(写真右は、2003年アメリカのフレッチャー・オペラ公演。中央の女性はヒロインのロジーナ。「(両側の)お二人と結婚したいわ」という「困ったちゃん娘」。写真下は、2006年ザルツブルク音楽祭におけるヨアヒム・シュレーマー演出。前衛的な舞台で、右側の女性は、ヒロインのロジーナ(左)の分身である「影のロジーナ」。原作にはないパントマイムだが、シュレーマー演出は不条理劇風のもので、原作のオペラ・ブッファの雰囲気をまるでぶち壊している。この二枚の写真が物語っている通り。)

12歳のモーツァルトが作曲したオペラで(K51)、原題は『La Finta Semplice』(偽の素朴娘)。カルロ・ゴルドーニの同名の喜劇がもとになっている。11歳のオペラ作品『アポロンとヒュアキントス』は高校の学芸会用の愛すべき小品だったが、こちらは全3幕、2時間半の本格的なオペラ・ブッファなのだ。12歳の少年が作曲することに対してウィーンのオペラ関係者が嫉妬したために、ウィーン上演は妨害され、翌年ザルツブルクの宮廷で初演された。それにしても、高橋英郎氏の主催する「モーツァルト劇場」が、少年モーツァルトのオペラを実演してくれるのは、何と嬉しいことだろう。私は、『愛の女庭師』(2004)、『アポロンとヒュアキントス』『劇場支配人』(2006)と観てきたが、今回の『愚か娘になりすまし』(邦訳タイトルが巧い!)を観て、東京でこの値段で(9000円)こんな瑞々しいオペラを観られることの幸福をあらためて感じた。『劇場支配人』は、本当は『(しがない)劇団座長』と訳されるべきだということも、この公演で知った。DVDで観たザルツブルク音楽祭のシュレーマー演出がじつに寒々とした無機質な舞台だったのに対して、今回の上村聡史演出は(まだ20代の若者で、オペラ初演出)、オペラ・ブッファにふさわしい、楽しく暖かいものだった。


物語はまったくの茶番劇。館の主人ドン・カッサンドロは、大金持ちだが、どーしようもなくがさつな男で女嫌い。だが、その弟のドン・ポリドーロは、女好きでまめな男。みさかいなく女性に言い寄り「結婚しよう」と口説くが、ぜんぜんもてない。この二人のどーしようもない兄弟を、女たちがからかい、笑いものにして、自分たちはハッピーな結婚をするというお話。面白いのは、女たちがとても自由な発想をすることだ。女中のニネッタは、「恋はしたいが、結婚はそれほどでもない」「結婚しても、私は自由に振舞わせてもらう」と歌う。召使たちは自分たちの結婚を女嫌いの主人カッサンドロに認めてもらうために、ハンガリーから男爵の娘ロジーナを館に呼びよせ、ロジーナに一芝居打ってもらう。美貌の女性ロジーナを見たとたん、女嫌いのはずだったカッサンドロが、「ブロッ、ブロッ」と萌え始める。この品のない「ブロッ、ブロッ」の歌が面白い。もちろん、弟のポリドーロもロジーナに言い寄るが、ロジーナは二人にいい顔をしてみせて、「二人と結婚したい」と言い張って困らせる。これが「愚か娘になりすまし」の意味である。「二人と結婚したい」というのは冗談だが、「一人の男じゃ女は満足できないわ」という本音のメッセージも含まれている。だが、もともと「なりすまし」の演技のはずだったが、いろいろなドタバタのあと、なんとロジーナはカッサンドロと結婚すると言う。いいところの一つもないダメ男と結婚するという結末が、なんとも可笑しいのだが、茶番劇というのはこういうものかもしれない。


だが、茶番劇であればあるほど、そこにモーツァルトはたとえようもない美しい音楽を付けるので、そもそも人間の生は本質的に茶番劇であり、まさにそれでこそ人間なのだという、大いなる肯定感が優しく舞台を包み込む。笑劇の嘲笑が音楽によって浄化され、我々は人間くさい感情のただ中で天国的に昇華される。考えてみれば、元気な召使たちによって主人がコケにされるという物語は『フィガロ』に通底するし、賢い女中ニネッタは明らかに『フィガロ』のスザンナの前身だ。『愛の女庭師』も『フィガロ』とよく似た場面や雰囲気をもっていたが、このようにしてみると、『フィガロ』は突然生み出されたのではなく、ある時代の大きな必然の中でこのような主題が愛され、それがモーツァルトの音楽においてさらに成熟を重ねた頂点の作品だということが分かる。


それにしても、2006年ザルツブルク音楽祭の、ヘアハイム演出『後宮からの誘拐』、グート演出『フィガロ』、シュレーマー演出『みてくれのばか娘』(本作)は、いずれも前衛的な演出を試みて、寒々とした無機質なものに終わっている。モーツァルトのオペラ・ブッファが台無しになっているように感じる私は、「守旧派」ということになるのか。