野田秀樹演出『フィガロの結婚』

charis2015-10-25

[オペラ] 野田秀樹演出:『フィガロの結婚東京芸術劇場 2015.10.25


(写真右はポスター、下はフィガロとスザンナ)

20世紀イギリスの哲学者バーナード・ウィリアムズは、「フィガロの結婚? どんな田舎芝居だって、僕は観たいよ」と言った。初めて「フィガロ」を観た日本人はおそらく森鴎外で、それから130年が過ぎた。1884年からのドイツ留学中に「フィガロ」を観た鴎外は、台本を買い、そこに「カヴァティーナとは、短い歌を繰り返すアリアのこと」と書き込んだ。カヴァティーナとアリアの違いを誰かに尋ねたのだろう。いかにも勉強家の鴎外らしい(滝井敬子『漱石が聴いたベートーヴェン中公新書)。世界中で親しまれているオペラ『フィガロの結婚』が、このたび野田秀樹演出で上演された。


幕末の長崎に時空をワープし、「フィガ郎(=フィガロ)」「スザおんな(=スザンナ)」など、人物も日本名。原作にないたくさんの人物が舞台を駆けまわり、跳んだり撥ねたりする。科白も、かなりの部分を野田が日本語に書き直し(原作と大きく違う)、日本語とイタリア語が半々くらいだろうか。庭師アントニオが映画のナレーションのような解説をするので、初めて観る人にも筋がよく分かる。野田演劇の特徴である言葉遊びもたくさんあり、演劇的にはとても楽しい舞台だが、オペラとしてはどうなのだろうか。『フィガロの結婚』という作品の魅力がまったく失われてしまい、少なくともオペラの上演としては失敗である。(写真下は、結婚式シーン、騙しの恋文をスザンナが伯爵に渡している)

ドン・ジョバンニ』『魔笛』は、演出家によってまるで別の作品のように感じられる作品であるが、『フィガロ』はそうではない。様式の点でも音楽の点でも、もうこれ以上ありえないほど完成した作品であり、演出家が下手にいじればダメになってしまう。アンドレアス・ホモキ、クラウス・グートといった才能ある演出家による現代的演出を、私たちはたくさん見てきたが、どれも伝統的演出には遠く及ばない。二期会では『フィガロ』『ジョバンニ』『魔笛』の三つを宮本亜門が演出したが、『ジョバンニ』を大きく改作し、『魔笛』は少しいじったのに対して、『フィガロ』はまったくいじっていない。そして宮本演出『フィガロ』は非常な傑作である(ミュージカルっぽい、軽やかな動きなど)。通常、『フィガロ』原作で未完成な点を演出家が補うのは、二ヵ所ある。第3幕、スザンナがお金を持ってくるのは伯爵夫人から借りたのだが、原作ではそのことが分からないので、伯爵夫人の第二のアリアを第三幕の中で前の方に移す試みがある。第4幕、伯爵夫人とスザンナが服を交換してしまえば、フィガロにとってスザンナが歌っていることが分からないので、話のつじつまが合わない。だから演出家が工夫する。たとえば、隠れているフィガロとスザンナ(=伯爵夫人の服装)との間に割り込むように伯爵夫人(=スザンナの服装)が立てば、フィガロから見れば、後方でスザンナが歌うアリアは、前景にいるスザンナ(本当はスザンナの服を着た伯爵夫人)が歌っているように見える(この点は、野田演出もそうなっていた)。この二点だけは、演出家によって工夫がそれぞれ違うが、それ以外はいじらないのが、伝統的演出であった。


魔笛』はジング・シュピールなので、音楽のつかない科白だけの部分があり、この部分は、上演される国の言葉で話すのが、最近の演出である。日本でやれば、そこだけ日本語で、フランスでやればフランス語にする。やりとりの言葉遊びの面白さがもともとあるので、この部分は、演出家がいろいろ変えていて、とても楽しい。野田秀樹も、『魔笛』だったら、そこは大成功しただろう。ところが『フィガロ』は、すべてに音楽が付いており、科白だけの部分はない。すべてが音楽で埋まっており、途切れることがない。そして、音楽が次の音楽へと移っていくその絶妙な転調が『フィガロ』の大きな魅力でもある。たとえば、第二幕、伯爵夫人の悲しみに満ちたアリア、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」、そしてケルビーノの着せ替えを楽しむ伯爵夫人とスザンナのデュエット、そこに戻ってくる伯爵によって、三重唱になり四重唱になり、最後はバルトロとマルチェリーナも加わる六重唱になる。このような音楽の「移り」こそ『フィガロ』の生命であり、音楽なしの科白による解説や言葉遊びで、その流れを止めてはならないのである。


野田演出では、第三幕「そよ風のデュエット」のところで、三人のバレリーナが登場して、踊りを付ける。このデュエットは、もうそれだけで神々しいまでに美しいのに、余計な踊りがつくために、そちらに注意の一部が割かれ、音楽への集中が妨げられてしまう。パントマイムが登場して身体表現をするのは、現代的演出『フィガロ』に多くみられることであり、野田だけではないのだが、何という馬鹿なことをするのだろう。モーツァルトの音楽に説明や解説はいらない。「余計なことをするな!」と、本当にイライラしてしまう。野田秀樹の演劇は、決して説明的ではなく、観客が想像力を全開にしなければ舞台についていけない、ある意味では、高級な演劇である。オペラではなぜ余計な「サービス」をしてしまうのだろうか、それが不思議だ。野田演出のヴェルディマクベス』は、そんなことはなかったように思う。


歌の一部を日本語にしたのも疑問。西洋オペラの旋律には日本語はもともと乗りにくい。母音が非常に多い日本語をオペラの旋律に乗せて歌うと、母音が伸びるので、「わあたあしいわあ、ああなあたあがあ、だあいいすうきいよお(watasiwa, anataga, daisukiyo)」のように、何とも気が抜けたものになってしまう。西洋オペラが日本に導入された際に、日本語の歌に直す試みもなされたが、結局うまくいかず、字幕つきの原語上演に落ち着いた経緯がある。


歌手は、伯爵、伯爵夫人、ケルビーノの三人の西洋人はどれも良くなかった。伯爵と伯爵夫人は声がやせており、声に伸びが乏しい。伯爵夫人の第2アリアで特に感じたのだが、深い所から歌い出される声でなければならないのに、喉だけで発声しているように聞こえる。ケルビーノにボーイ・ソプラノ出身のカウンターテナーを起用したのも疑問。カウンターテナーは高音域は出るが、声に「色艶(いろつや)」が欠けている。宗教音楽ならよいのだろうが、メゾ・ソプラノの「玉をころがす」ような色艶のある歌いこそ、ケルビーノにふさわしい(たとえば、2003年新国のエレナ・ツィトコーワは、空前絶後の声だった)。今回の上演では、スザンナを歌った小林沙羅はとても素晴らしかった。歌手は全員日本人でよかったのではないか。今は、日本人歌手のレベルは非常に高いのだから。