小林よしのり『靖国論』(11)

charis2005-10-01

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


(写真は、ピカソの「虚栄」1946。ピカソ美術館蔵。彼は戦後、戦争をテーマにした絵を何枚も描いている。)


小林よしのり氏は、サンフランシスコ講和条約第11条は、日本の戦争責任を認めたものでもないし、東京裁判を受諾したものでもないと主張する。「第11条は東京裁判の受諾を示すどころか、逆に国際法を蹂躙した報復が続いていた証拠である。それを左翼はまっさかさまに見せる詐術を使うのだ」(p36)。だが、そうだろうか? 明らかに小林氏は間違っている。この論点は、当日誌の6月9日に「福田和也氏の<A級戦犯>論の誤り」と題して一度論じたが、『正論』誌9月号に坂本一哉氏の新しい論考が現れたので、それを考慮しながら再度、考えてみたい。


まず、条文の引用から。サンフランシスコ講和条約第11条:「【戦争犯罪】日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判(judgments)を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」小林氏や福田氏は、この文章にある「judgments」は「判決」のことだから「裁判」と訳したのは「誤訳」であると主張する(p56)。だが考えてもみよう。外国の小説をどこかの翻訳家が訳すのとは違うのだ。これは日本国の主権回復を規定した「サンフランシスコ講和条約」の日本語条文である。うっかり間違えた「誤訳」などということはありえない。この条約全体としての成立の背景を考えるならば、以下にみるように、訳語が「判決」ではなく「裁判」であることは少しも誤訳ではない。


2005年6月2日の参議院の委員会審議において、林景一外務省国際法局長は、次のように答弁している。「そのジャッジメントというものの中身は・・・、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認識、それから判定、あるいはその刑の宣告・・・、そのすべてが含まれているというふうに考えております。・・・したがって、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが・・・。」きわめて当然の認識であろう。「ジャッジメントを受諾する」というのは、個々の「判決」に至る「裁判」の過程を全体として「受諾」するということである。


坂本一哉氏の論考によれば、第11条のこの引用箇所は、講和条約の原案のうち米国案にはなかったもので、英国案の21条の部分が挿入されて出来たものである。英国案は日本に対して米国案よりは厳しいもので、連合国の対イタリア条約をモデルにした、戦争責任を明記する内容であった。しかし英米の協議の結果、日本の戦争責任の言及は条文には明記されなかった。その理由は、敗戦後6年目の講和条約時点では、軍閥解体、日本国憲法、農地解放など主要な戦後処理は終わっており、冷戦勃発後の日本を早急に西側陣営に組み込むためには、日本国内の反発を回避することを優先したからである。そのような条約において、最初の英国案が反映して、何らかの意味で「戦争責任」を含意する箇所が、まさに11条のこの「裁判の受諾」なのである。


講和条約発効後は、戦争犯罪の刑の執行の主体は連合国ではなく日本国である。これは、主体としての日本国が、戦争責任を認めることによってしか行い得ない。つまり、「裁判を受諾する」ことは、受諾する「主体」を前提するから、そこでは「主体」が「主体」として認められている。講和条約第11条は、東京裁判の個々の判決や事実認定を我々が「正しい」と認めたということではない。そうではなく、日本国が「主体」として自立するにあたって、我々は全体としての態度表明をすることによって、戦争責任を認めたのである。「判決」ではなく「裁判を受諾」したのは、その精神において正しい訳語なのである。