上野千鶴子『女ぎらい』

charis2010-11-26

[読書] 上野千鶴子『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』(紀伊国屋書店刊、10月16日)


久しぶりの、著者の本格的なジェンダー論。興味深い内容なので、一部を紹介してみたい。まずは、「女ぎらい=ミソジニー」というタイトルの意味である。通常、「ミソジニー」は「女性嫌悪」と訳される。ハムレットの科白やボードレールなど、「ミソジニー」を表明した西洋の男性は多い。だが著者は、「ミソジニーの男には、女好きが多い」と言う(p7)。奇妙な逆説のように見えるが、そうではないのだ。著者によれば、きわめて包括的な「女性蔑視」「女性軽視」が、「ミソジニー」の本質である。というのも、「いい女や美しい女をものにした男」は、何よりも男の集団の中で高い評価を得るからであり、女はもともと、男たちが評価を競う「獲物」や「客体」であって、「主体」にはなれない低い位置にあったからだ。レヴィ=ストロースによれば、未開社会では、娘は、父親たちが家を維持するために嫁がせる「交換と贈与」の対象であった。さすがに近代社会はそうではない(ことになっている)が、「ホモ・ソーシャル」(アメリカの社会学セジウィックの提案した概念)は、近代社会でも揺らがない。「ホモ・ソーシャル」とは、男同士の性的ではない連帯感や絆、ネットワーク、友情などであり、現在でも社会で大きな力を持っている。男というものは、仲間の男たちから、「あいつは出来る奴だ」「凄い奴だ」と評価され羨ましがれることが何より嬉しいと、著者は言う。「いい女をものにする」ことも、もちろんその一つである。つまり、男性の自己評価・他者評価は、女性から認められることにではなく、同性に認められることに依存しているのだ。「男の中の男」という言葉にあるように。


では、女自身はどう思っているのか? 男性が富と権力を握る社会では、「いい女や美しい女」であることは、それ自体において、あるいは女自身にとって価値があるというよりも、そういう女は「男に選ばれる」からこそ、女自身も自分が「いい女や美しい女」でありたいと望む。つまり、女自身の欲望は、男の欲望に合わせて形成されるのだ。そうなる理由は、男が富と権力を握る男性優位の社会がある以上、力のある男や裕福な男に選ばれた女が、それだけ幸福になるという一般的傾向があるからである。ホリエモンは「女は金についてくる」と豪語したし、裕福な男性と結婚して専業主婦になりたい若い女性も少なくない。いや、そんなことはない、高い地位と経済力をもつキャリアウーマンもいるじゃないかと思う人もいるだろう。だが、キャリアウーマンであっても、男に選ばれない未婚の女は、「たしかに出来る女(ひと)だけれど、女(おんな)としてあまり幸福ではない」という評価を、男たちや子持ちの専業主婦たちから受ける。女は男に選ばれてこそ女なのだと、彼らは思っている。女は「選ばれる対象」という受動的な位置に置かれているので、男はどこかで女を自分より一段低いものと考えているだけではなく、まさにその価値観が、女自身にも投影され内面化される。つまり、たとえ男に選ばれた「いい女」であっても、まともな女ならば、男の欲望に従属して自分の幸福があることに「自己嫌悪」を覚えないわけにはいかない。


著者は、本書を書くことは、とても不愉快で苦痛だったと述べている。「ミソジニー」は、簡単にはなくならないからだ。本書は、日本の時事的問題にも光を当てる。売春や援助交際をめぐる宮台真司批判、男性と女性で評価の異なる東電OL事件、中村うさぎがなぜ女性に人気があるか、俗情におもねる林真理子への批判、女子高文化、皇室の結婚問題などについて、冴えた分析が光る。