コンヴィチュニー演出『魔弾の射手』

charis2018-07-22

[オペラ] コンヴィチュニー演出・ウェーバー『魔弾の射手』 東京文化会館 7.22


(写真右は、悪魔のザミエルに扮する大和悠河、下も同じだが、天使の姿をしたり、狼の仮面をつけたりしている)



 コンヴィチュニー演出を見るのは、『皇帝ティト』『サロメ』『マクベス』『魔笛』に次いで5回目だが、今回もその斬新な演出に瞠目させられた。通常は、怖い顔をした中年男性が演じる悪魔ザミエルに、元宝塚スターの大和悠河を起用しただけでなく、登場回数を増やし、服装を替え、舞台回しの道化役も兼ねさせている。ザミエルはもともと歌はなく科白だけの役なので、彼女にはぴったりだ。さらに、ザミエルが歌わないのを補うように、もう一人ヴィオラ奏者の女性をザミエルに仕立てて、ヒロインのアガーテとその従妹エンヒェンに寄り添ってヴィオラを弾く(写真下↓、ハンブルグ版の写真だが左からザミエル、エンヒェン、アガーテ)。つまりザミエルが二人いるだけでなく、たくさんの役をしている。悪魔を大和悠河にしたのは大成功だったと思う。悪魔には、誰もがその誘惑に負けて魂を売ってしまう。それには悪魔は美しい方がいい。『ファウスト』のメフィストもかなりのイケメンだったはず。もともとザミエルは、ごく短時間、ちょっとだけ姿を現す役なので、彼女はまるでファッショモデルのように見えた。パリコレのモデルが、ぱっと現われぱっと消えるように。また、男装姿が凛々しいのもいろいろな使い方ができる。狼の面をかぶったり、「狩人の合唱」の「ラーララ、ラーララ・・・」を口づさむとき、彼女は道化風の舞台進行役になっている。一方、アガーテに寄り添ってヴィオラを弾くザミエルは、アガーテの不安を募らせる役なのだろうか。そうだとすると、アガーテの愛と結婚を終始励まし続ける従妹のエンヒェンに敗北したように、私には見えたのだが。

 『魔弾の射手』という作品の特徴はどこにあるのだろうか。狩人や農民たちの素朴で野性的な生態をベースに、深い森の中の魔術や狼谷の恐ろしさとおどろおどろしさとの対比によって、アガーテやエンヒェンら娘たちの愛の美しさが際立つ、という点にあるのだと私は思う。そういう基本構造は、どんな演出をしてもやはり変わらないと感じた。第二幕と三幕の、アガーテとエンヒェンのアリアや二重唱は本当に美しい。満天の星空の下で歌うアガーテを「崇高」の象徴だとすれば、つねに生を愛し、自由な戯れに打ち興じるエンヒェンは「美」を象徴するのだと思う。私はエンヒェンというキャラクターが特に好きなのだが、アガーテではなく、彼女こそ本作の真のヒロインなのではないか。『フィガロ』のスザンナや、『カルメル会』のコンスタンス修道女と共通するものを感じる。エンヒェンがアガーテを励まして、「花嫁の目には、涙は似合わないわ。愛らしい友よ、さあ、くよくよするのはやめましょう」と歌うのは、本当に美しい。写真下↓は、客席にいた隠者?から花束を受け取って喜ぶエンヒェン。

 コンヴィチュニーがプログラムノートで述べているように、『魔弾の射手』には階級や政治の問題が含意されており、終幕の、魔弾が逸れてアガーテが助かるデウス・エクス・マキナ風の解決には、コンヴィチュニーは批判的である。しかし、これらの多層的な問題をすべて一つの舞台で表現するのはなかなか難しいように思う。猟師と農民の対立というのも、なかなか我々には分からない。写真下は、農民にたちにいじめられる猟師マックス。そして、魔弾を一つ作るたびの不気味な鳴動シーン。