内田樹『9条どうでしょう』(3)

charis2006-04-07

[読書] 内田樹ほか 『9条どうでしょう』
    (06年3月、毎日新聞社)


(挿絵はエラスムス。『痴愚神礼賛』『平和の訴え』などがある。「自由意志」を巡って原理主義的なルターと論争した。反原理主義という点では、ミーハー人文主義者・内田氏とも通じる?)


内田氏の9条論は、別に奇説ではない。むしろ保守派も含めてかなり多くの国民が共有している「本音」に近い。そうであれば、しかし、それに対する批判もありうるだろう。ここでは、『論座』2005年6月号に掲載された、法哲学者・井上達夫氏の9条論「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」と、長谷部恭男氏の憲法論の二つを参照しながら、考えてみたい。井上9条論は、内田9条論と対立するが、長谷部氏の憲法論は必ずしもそうではないと思われるからである。


井上氏の論考は、改憲派護憲派双方の「自己欺瞞」を批判する明晰なものだが、今は護憲派批判の部分のみを取り上げる。井上氏によれば、憲法第9条自衛隊の抑止として働いてきたという理由で9条を正当化することは、「実に見事な<大人の欺瞞>である。<頭は左、財布は右>と世間で呼ぶものにも通じるが、<現実への倫理的タダ乗り>と呼ぶ方が、一層正確である。」(p22) この「現実への倫理的タダ乗り」は、「日本における立憲主義の確立と発展を拒んできた」という点で大いに問題であり、9条は「端的に削除すべきである。9条は立憲主義にとって異物であるばかりか、それがはびこらせる政治的欺瞞は立憲主義の精神を蝕んできた。憲法の本体を救うために、この病巣を切除することこそ、真の護憲の立場である」(23)と、井上氏は述べる。


私は、このような井上9条論の誠実さを十分に認めた上で、それでもやはり、内田9条論を擁護したい。それは、同じ『論座』6月号に掲載されている、憲法学者・長谷部恭男氏の論考を考慮すると、憲法における「立憲主義」を井上氏よりも広く解せるのではないかと思うからである。長谷部氏によれば、憲法立憲主義とは、「政治のプロセスがその本来の領分を越えて個々人の良心に任されるべき領域に入り込んだり、政治のプロセスの働き自体を損ねかねない危険な選択をしたりしないよう、あらかじめ選択の幅を制限するというのが、主な役割である。」(12)


長谷部氏の議論で非常に興味深いのは、「立憲主義は、人間の本性に反している」(14)という論点である。立憲主義は、多様な思想、信条の自由を認めて多元的な価値を保証することを、憲法という最高の法規で謳っているが、これは、「人間の本性に反する」からこそ、憲法で保障しなければならない大切な価値なのである。というのは、人間の本性という点では、「皆が同じ価値観を奉じ、同じ世界観を抱く<分りやすい>世の中」の方が住みやすいからであり、「一人ひとりが生き方を思い悩む必要もなく、<正義>や<真実>をめぐって深い選択に直面することもない」方が快適だからである(14)。人間というものは、ほっておけば、多元的価値の苦悩から逃れるために、自分の価値を他人に強要したり、一枚板の「分りやすい世の中」を作りたがるものだ。だから、思想・信条は「私的」領域として、「公的領域」から区分して、その存立を保護するのが憲法なのである。


つまり、立憲主義とは、「人間の本性に反する」からこそ、それをあえて憲法という最高規範に謳わなければならないという、パラドキシカルで高度な人間の知恵なのである。井上氏が「立憲主義」という言葉を使うとき(少なくとも、この論文では)、長谷部氏のような立憲主義の根底にあるパラドックスがあまり感じられない。ところで、内田氏はこう述べていた。「憲法9条は<戦争をさせないため>に制定されている。なぜなら、<人間はほうっておけば必ず戦争をする>からである。これが憲法論議の大前提である」(『9条どうでしょう』p15)。「人間はほうっておけば必ず戦争をする」という”人間の本性”があるからこそ、「人間の本性に反する」憲法9条に意義があるのである。長谷部氏は、はっきりとここまで述べてはいないが、その立憲主義論は、内田9条論と通じるものがあると私は考える。要は、人間の本性と根本規範の関係には、ある種のパラドックスがあることを洞察することが大切なのである。内田氏は、9条を受容した戦後日本人の「狂気」とか「疾病利得」とか、強烈なタームを使うが、その背後にある深い”直観”は高く評価されるべきだろう。


長谷部氏によれば、「憲法は、通常の法律よりも変えにくくなっている」ことに、大きな意味がある(14)。それは、「通常の立法のプロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである」(同)。9条に即して言えば、井上氏のように「病巣を切除する」のではなく、9条は変えない代わりに、たとえば「平和基本法」のような立法によって、自衛隊の適性な位置づけ、「現実への倫理的タダ乗り」を解消する努力をすることが、立憲主義の精神に、よりふさわしいのではなかろうか。