田島正樹『読む哲学事典』(3)

charis2006-06-04

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書、5月21日刊)


(写真は、アイスキュロス像。)


「問題解決としての、新しい意味の生成」というと、何か抽象的で、非常に難しい印象を受けるが、そうではない。それは歴史上さまざまなところで、現実に生じたことなのである。「正義と詩人」「法と革命」という項目は、古代ギリシアにおける「問題解決としての、新らしい意味の生成」を論じている。新しいルールや法はどのように生まれるのかという問題は、クリプキウィトゲンシュタインパラドックス』やデリダ『法の力』などが扱っているが、この問題をホメロスアイスキュロスの中に見出すところに、田島氏の哲学者としての稀有な資質が感じられる。


ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』は、遊吟詩人たちが戦争の記憶を、神々や英雄の物語に仮託しつつ、民衆の前で語り聞かせるところに成立した。これはよく知られたことであるが、田島氏はこれを、「メディア革命」として捉え直し、自由な言論の空間=公論の共同体という「新しいルールの発生」をそこに見出す(p132f)。ギリシアの神々はオリンポスに集住して、活発に語り合う。トロイ戦争に出陣する人間の王たちも合議制が原則であり、アガメムノンは会議の主宰者ではあっても、専制君主ではない。これは、古代ギリシア人たちがポリスに集住し、そこで「言論に訴えて他者を説得するという契機を含む活動」(213)を行ったことを、鏡のように映し出しているのだ。


ギリシア人は、英雄的行為が詩人によって歌われることによって、公共的な記憶に刻まれるというメディア革命を、ポリスでの人々の活動と結びつけることによって、政治についてのまったく画期的な理念を打ち立てた。・・法とは、[言論による]公共的問題解決のケースの記憶に他ならない。」(213) 重要なことは、ポリスという公論の共同体は、事前の社会契約によって、実定法的に創設されたものではないことである。碁で打たれた石の「意味」が、あらかじめの意図されたものではなく、迷いながらの試行錯誤の中で生まれた構図によって決まるのと同様に、遊吟詩人と民衆の語り合いの中から偶然生まれ、「これは素晴らしい」と人々に思われたものが、「新しい意味の生成」としての「法の創造」なのである。


ギリシアの神々は、オケアノス(海)、ガイア(大地)、ヘリオス(太陽)のような古い神々と、ゼウス以降の、アポロン、アテナ、アフロディーテなどの新しい神々との二種類ある。前者が、古代ギリシアにおける征服された先住民に対応し、後者が、ポリスを形成した新しいギリシア人に対応する。新しい神々の「自由な闊達さ」「しゃかりきにならず、遊びを楽しむ軽やかさ」を、かつてヘーゲルは『哲学史講義』や『美学講義』で繰り返し感動を込めて語ったが、田島氏はそこに、言論による政治空間という「新しい意味の生成」を読み取るのだ。


同じことが、アイスキュロスの『オレステイア三部作』の中にも読み取れる。夫アガメムノンを殺害した妻クリュタイムネストラは、息子オレステスと娘エレクトラによって殺されるが、二人はその後、「母殺し」の罪によって復讐の女神たちによって追い詰められる。死を覚悟した二人が最後にたどり着いたアテナイで、民衆裁判が行われるが、断罪の投票は賛否同数であった。そこで、女神アテナが無罪に一票を投じ、二人は無罪になる。問題はここである。「機械仕掛けの神」が突如現れて問題を解決してしまうのは、安易だと感じるのは、実は転倒した近代人の解釈にすぎない。問題解決は、意図したものではなく偶然に生じるという「新しい意味の生成」こそが、この寓話の真意なのである(p215f)。『オレステイア三部作』は、ホメロスと同様、血なまぐさい復讐が復讐を呼ぶ歴史の葛藤の中で、言論による政治空間を偶然「発見し」、それを記憶=定着させたギリシア人たちの叡智の物語なのである(続く)。