ミリカン『意味と目的の世界』(7)

charis2007-06-22

[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)


哲学には、「事実から規範は導出できない」という古くからの難問がある。しかしミリカンはまったく逆に考える。そもそも記号(=表象)の起源は、「生物が、自己の生存に適する行動を指令されるように周囲の環境を知覚する」ことにあるのだから、ミツバチのダンスのように、事実を表象することと行動の指令は一体のものだ。環境の認知は、生存の必要性に合うように形成されたのであり、存在と当為はもともと分かれていない。人間のような高度に進化した動物だけが、事実認識と行動指令を分離する。だから、両者をいかにして繋げるかという問いは、転倒した問いなのである。むしろ我々は、生物の知覚と認知の進化の結果、どうして人間において両者が分離したのかと問うべきである。ミリカンは、本書第13〜19章において、この分離の経過を追跡する。


彼女は言う。「ずばぬけて基礎的であるような種類の志向的記号は、私が<オシツオサレツ(pushmi-pullyu)記号>と呼ぶ記号である。・・それは、事実を表象することとその事実にふさわしい行動を指令することが差異化されていない記号である。それは一度に、事実を表象し、かつ指令を与える(つまり目標を表象する)。公共言語においてさえ、オシツオサレツ記号が見られる。たとえば、「だめよ、ジョニー、豆は指で食べないものよ」がそうである。私の知る限り、人間以外の動物のあいだで用いられる志向的記号はすべてオシツオサレツ記号である。」(p216)


「だめよ、ジョニー、豆は指で食べないものよ」という発言は、ジョニーが豆を指で食べているという事実を表象すると同時に、それをやめるよう指令しているオシツオサレツ記号なのである。オシツオサレツ記号は、きわめて原始的なところから始まり、動物の身体で働く化学的メッセンジャー(ある部位の化学的組成を探知し、その情報を信号として他の部位へ送り出し、必要な分泌を促す伝令)がそれである。そのような生物の体内信号から、「だめよ、ジョニー、・・・」のような発言に至るまでの遠大なスパンが、「オシツオサレツ記号」という一つの共通項で括られるところに、ミリカンの記号論の面白さがある。


だが、そうだとすると、オシツオサレツ「ではない」記号の特徴はどこにあり、また、なぜそのような記号が生まれなければならなかったのかを示すことは、なかなかの難問になる。ミリカンの戦略はほぼ次のようなものである。
(1) オシツオサレツ記号に含まれる「目標の表象」は、「目標が達成された状態の表象」とは大きく違う。
(2) 「目標が達成された状態の表象」は、たんなる「目標の場所」ではなく、空間的表象から、時間的表象が分離されなければならず、これは、空間と時間の分離というきわめて高度な認識の地平を要請する。
(3) 空間から時間が分離して理解されることによってはじめて、「同一のもの」の再現、再認が可能になる。つまり、「同一のもの」の認知には、未来や過去という時間様相の理解が必要になる。たとえば、「ドアを閉めなさい」「ドアが閉められるだろう」「ドアが閉まっている」という三つの文の違いを理解することは、共通の同一的な表象を共有しつつも、そこに「投射される目標状態」「客観的に表象される未来状態」「客観的に表象される現在状態」という三つの違いを理解することなのである(p272f)。


このような時間様相の理解によってはじめて、「目標を持ちながらも、適当なときにはそれを中止することもできる」という、人間に固有の高度な目標追究行動が可能になる。これはもはや、オシツオサレツ記号による目標追究の行動とは大きく異なっている。とはいえ、ミリカン自身が、「私の知る限り、人間以外の動物のあいだで用いられる志向的記号はすべてオシツオサレツ記号である」と認めるように、人間以外の動物と人間とのギャップは実は桁外れに大きく、進化生物学といえども、簡単にはその落差を埋められないことが明らかになる。[続く]