ミリカン『意味と目的の世界』(9)

charis2007-06-27

[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)


[写真はチンパンジーのアイちゃん。京大の松沢教授から健康診断を受けている。アイちゃんは、100以上の言葉、英語も10ぐらい知っていると言われるのだが・・・]


ミツバチのダンスのように、一つの知覚が一つの行動を強制するのが、動物が生きるアフォーダンス(=知覚者が行動に向かうように環境知覚が形成されること)の世界である。だが、前回見たミリカン家のリスのように、進化した動物は、異なるアフォーダンスの組み合わせによって、単独のアフォーダンスからは得られない「目標への新しい経路」を発見することがある。そのためには、縄張りの環境空間的な地図だけでなく、まったく異なるアフォーダンスを順番に結合する「時間順序の表象」が必要である。つまり、空間と時間が分離するからこそ、まずA、次にB、そしてCという質的に異なったアフォーダンスが「時間の中に並ぶ」。この意味で、複数のプロセスの系列という意味での時間表象は、動物も持つことができる。だが、ここから先の人間とのギャップはまだ大きい。


ミリカンは、動物にとっての時間系列は、空間的に異なる場所を循環するようなものだろうと言う。「[動物の時間は]、時間的に系列化された集まりとして表象されるにすぎない時間である。このように理解される時間では、時間はまったく空間と類似的なものになる。空間は、われわれがその中をどれほどあちこち移動して回っても、ほとんど同じであり続ける。われわれは空間のある部分から出発して、次々と隣の部分へ進んでいき、のちに再び同じ部分、出発したときと同じままであることが分かるような同じ部分に戻ることができる。」(p316) このように「循環する時間」は、四季の巡りに似ている。人間も、「また春がやって来たな」と、春夏秋冬の同じものの繰り返しを感じる。おそらく百万年も前のヒトにとっては、循環する時間の意識が大きかったかもしれない。だが、同じ四季の繰り返しを通じて、ヒトは、祖父母、父母、私、子供、孫という「異なる個体の不可逆な順序系列」を経験するから、そこには線形時間の意識が生じたはずである。動物の時間表象は、複数の時間系列にとどまり、前方にどこまでも伸びてゆく線形時間ではない。この線形時間こそが、「未来を変えること」「新しいものの創造」を可能にするのだが、動物においては、これがほとんど欠けている。


アイちゃんに水を差すつもりはもちろんないが、ミリカンによれば、類人猿(=チンパンジー、ゴリラ、オランウータン)の使う言語記号は、人間にとってそれが持つ「意味」とは全然ちがう。「アメリカ記号言語の記号が類人猿にとってもつ<意味>は、その類人猿が報酬を受けた状況をエピソード的に表象するにすぎない。」「類人猿が記号を利用するのは、その利用を引き出す刺激と報酬が明確に特定されており、かつそれらが現前しているか、少なくともすぐ間近にあるような状況に限られている。」(p298) つまり、記号を理解するようにチンパンジーを「調教する」には、ある記号を読み取るたびに、ご褒美の餌を与えるという辛抱強い動機付けが必要である。チンパンジーは、報酬がなければ、自分から記号を識別したりはしない。動物の行う「芸」は、報酬システムによって人間に「調教される」範囲内に留まっている。


このことは、動物が鏡や写真にどう対応するかにも示されている。子猫は最初に鏡に興味を示し、後ろに回ったりするが、そこに何もないことが分かると、以後は一切、鏡に関心を示さない。「鏡は、情報空間に穴を開けるだけだという態度を取る。濁水を通しては何も見ることができないように、鏡を通しては何も見ることができないからである。」(p168) つまり、鏡に映るものは、子猫にとって「情報を与えるものではない」から、鏡は子猫の環境的アフォーダンス空間に空いた「穴」なのである。ハトもまた、訓練すれば、写真に写っているものが木か、人間か、水かに応じて写真を分類することができる。だが、ハトがそうするのは、識別が成功したときに餌が与えられるという「意味」が写真にあるからであって、写真の内容から「情報を読みっているのではない」(168)。鏡、写真、人間の言語のような「自然的でない記号」に対して動物が一定の識別をしたとしても、人間と違うのは、動物はそこから情報を読み取っていないということである。


このような動物と対比することによって、人間の言語の機能がかえってよく見えてくる。人間の言語の特徴は、アフォーダンスのように自分との関係が直接に表象されることのない情報を与える点にある。「自分に対する事物の[時空的、アフォーダンス的]関係を含んでいないような情報を心的に表象して利用する」(p169)のが、人間の言語の際立った特徴である。「自分に対する関係を含んでいない」情報は、アフォーダンスのように「今、・・・せよ」という行動を指令しないので、ある意味では「遊んでいる情報」である。この、いますぐ役立たない「遊んでいる情報」こそ、「一般的な事実を表象する」ものであり、その中に多数の異なるアフォーダンスの組み合わせを系列化することを可能にする。ミリカン家のリスも、非常に限定された形では「目標達成の表象」を持っていた。だがそれは、線形時間の未来ではないので、それ以上には発展しない。空間と類比される循環的時間から線形時間が自立することは、過去や現在には存在しない「新しい出来事」を人間に意識させる。そのような「新しい出来事」に向けて、その達成の可能性を探ることを可能にするのが「今は遊んでいる、一般的な事実表象」である。動物にとって、鏡や写真や人間の言語は「今、・・・せよ」という行動を指令しないから、彼らにとって「情報を与えない」たんなる「穴」である。それに対して、人間の言語は、自分との関係を含まない一般的な事実を開示することによって、かつて存在しなかった「新しい出来事」に、人間の行為を向かわせることができるのである。