ミリカン『意味と目的の世界』(11)

charis2007-07-03

[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)


[写真はミリカンの近著。Language : A Biological Model, 2005]


「彼女は来ない」のような否定判断は、通常、それを裏付ける「彼女は急用ができた」のような肯定的な情報がなければできない判断である。ミリカンによれば、否定判断の本質は、他の肯定的事態の可能性を開示するところにある。つまり、「・・・でない」「not」「ne pas」等の単純な音は、それが何を表現(表象)するかという点で、他の記号とは異なる注目すべき機能をもっている。それは当の主語に関わる可能な述語の広範な領域を開示するという、いわば”視界を一挙に広げる”機能といえる。「AはBである」という肯定判断が、我々の視線を一つのものに固定するのに対して、否定判断は、我々の視線をそこから解放し、転換させる。それは、「AはBである」という判断がそこに織り込まれている「今、ここ」の認識風景を打ち壊し、可能な複数の領域がその中に見て取れる広い視界に自分を連れ出す。だが、つねに「今、ここ」という環境的知覚に生きている自分が、「視点をその外部に移す」ためには、「今、ここ」でない世界、つまり「自分にとって現実になっていない世界」に視点を移さなければならない。そのためには、時間と空間が分離していなければならないことが、問題の核心である。


我々人間は、すでに時間と空間を分けて捉えることができるので、動物が生きている環境的アフォーダンス空間は時間と空間が分離していないことを忘れがちである。時間と空間とが融合した環境アフォーダンス空間では、「今、ここ」における「今」と「ここ」の二要素が分離していない。だから、「今、ここ以外の場所で起きている事態」や、「ここで、今でない時に起きる事態」というものが存在しない。その結果、「今、ここ」の外部に視点を移すことができないのである。人間においても、自分自身に運動性がある場合には、時間と空間を分離させない環境アフォーダンス空間が立ち現れる。ミリカンによれば、「テニス選手は、[今の]知覚に導かれて、やってくるボールを相手のコートの所定の位置[=ボールの未来の場所]に打ち込むことができる」(p277)し、「[人間は]近づいてくるボールや一撃をかわしたり、・・・[自動車で]走っているときに前方に迫ってくる急な曲がり角を曲がるための準備をしたり・・・、つまり、時間的に遠位にあるものの知覚は、空間的に遠位にあるものの知覚とまったく同じように機能する。動物は、<そこ>にあるものの知覚によって<ここ>で導かれるように、<のち>に起こるものの知覚によって<いま>導かれるのである。」(263)


このように、アフォーダンス空間においては、人間であれ動物であれ、空間的な「あそこ」は時間的に未来の「のち」であり、「あそこ」の知覚が「いま、ここ」の行動を自動的に導くという仕方で、時間と空間はぴったり張り付いて融合している。しかし、運動性を含むアフォーダンス空間ではなく、「彼女は来ない」のような”否定の事態”に直面するためには、時間と空間が分離しなくてはならない。眼前の空間のどこにもいない彼女は、「いま」別の場所にいると考えるためには、「眼前の空間」と時間的「いま」とが分離しなければならない。また、たとえばある場所を知覚しながら、「いま、ここには誰もいないが、明日は人が溢れるだろう」と考えるためには、「眼前のいまの空間」と「明日のおなじこの空間」とが時間的に区別して取り出されなければならない。どちらの場合も、アフォーダンス空間のように時間を空間から引き剥がせないままでは不可能な「視点の移動」なのである。


ミリカンは、前に見たように(第9回)、動物は、四季の循環のような「空間と類似的な時間を生きる」と述べていた。このことは、時間と空間が融合して、空間的「あそこ」と時間的「のち」が張り付いたアフォーダンス空間を考えればよく理解できるだろう。我々人間は、時間と空間が分離された抽象的な時空観念をもっているので、時間的未来が空間的「あそこ」として現に見えているアフォーダンス空間の方にかえって新鮮さを感じる。しかし、三次元空間に時間の一次元をプラスして四次元時空を幾何学的に表現したミンコフスキー表示は、よく考えてみればとても奇妙なものである。幾何学的な四次元時空として描かれた光円錐を我々は「外から見ている」ように感じるが、実は、我々自身は四次元時空の中を生きてはいない。空間座標における場所と場所の「隔たり」は距離として「見える」ものであるが、異質であるがゆえに空間座標と「直交する」時間軸における出来事と出来事の隔たりは、「見える」隔たりではないはずなのに、しかし、見えるように描かれているのがミンコフスキー表示である。これは、一方ではヒトという動物として、空間と時間が融合したアフォーダンス空間を生きながらも、それに加えて、空間から分離した線形時間の観念を持ってしまった人間の、根本矛盾であるとも考えられる。「動く現在の謎」とか、「時間の空間化」(ベルクソン)とか言われるものも、たぶん同じ事態のことを言っているのだろう。なぜなら、「空間を動くもの」を見ているかぎり、空間の「あそこ」が時間的未来の「のち」であり、時間と空間は融合しているのだから、「動く現在」という比喩は、せっかく空間から自立させた時間を、再びアフォーダンス空間内に描き込んでしまっているように思われるからである。


[一応、ミリカンはこれで終わり。彼女の本は、十分に展開されていない優れた着想が随所に見られるので、その先を自分で考えてみたくなります。それには時間が必要なので、また何か論点が見つかったら、あらためて書くかもしれません。議論が錯綜して分かりにくい本書を翻訳された信原氏の労を讃えたいと思います。]