ガルシア=マルケス『エレンディラ』

charis2007-09-01

[演劇] ガルシア=マルケス原作『エレンディラ蜷川幸雄演出、さいたま芸術劇場

(写真右は、左からエレンディラの祖母(瑳川哲朗)、エレンディラ(美波)、ウリセス(中川晃教)、語り部の作家(國村隼)。写真下は舞台より。)


コロンビアの作家、ガルシア=マルケスの小説『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』(1972)を、社会派劇作家の坂手洋二が脚本化し、蜷川幸雄が演出した興味深い企画。マルケスの作品は、代表作『百年の孤独』がそうであるように、ありえない非現実と現実とが平然と混じり合う「魔術的リアリズム」を特徴とする。山岳地帯、砂漠、ジャングル、海が混在するコロンビアという土地に、現代から古代までが同時に存在するような不思議な光景が展開する。奇妙に「乾いた感じ」が全体を支配しており、村にたくさん人が住んでいるはずなのに、ディテールが描かれないので生活臭がなく、存在全体が何となく虚構めいている。


エレンディラ』は比較的分かりやすい中篇物語だ。14歳になる美しい少女エレンディラは、両親を早く亡くして祖母に育てられたが、火事で家を焼いてしまい、祖母と旅をしながら売春させられる。簡単なテント生活の旅だが、テントの前には男たちが群がり、売春は異常に繁盛するが、一日に何十人もの客を取るエレンディラはボロボロになってしまう。しかし彼女は人格の深い次元で、この化け物のような祖母に依存し切っており、何度か逃げ出す機会があったにもかかわらず、結局は自分から祖母の元に戻って、売春旅行が続く。偶然知り合った、美貌だがひ弱な青年ウリセスとの恋が彼女を慰める。ついに彼女は祖母に殺意を抱く。そしてウリセスが、なかなか死なない強靭な祖母を、三度目の試みでやっと殺す。だが、祖母を失ったエレンディラは、砂漠の中へと走り去って消えてしまい、ウリセスはただ泣くばかり。


この物語が、しかし舞台では、ずいぶん手を加えられた。脚本の坂手洋二は、マルケスの短編小説『大きな翼のある、ひどく年取った男』と組み合わせて、ウリセスを天使に仕立て、しかも前半は、物語を回想するナレーターの役目も果たす。後半は、自分が出ずっぱりなので、ナレーターとして作家(=マルケス)が登場する。それに加えて、年老いた老天使も登場するので、全体が複雑なメタ構造になった。しかも原作とは最後が違って、数十年後、エレンディラ自身が老女となり、かつての祖母とそっくりにベッドに横たわるので、何がどうなっているのか、よく理解できなかった。語り部が多すぎて、全体が説明的になったのも欠点。上演時間も、25分の休憩を入れて4時間というのは長すぎるだろう。


とはいえ、ガルシア=マルケスの奇妙に乾いた可笑しみのある光景や、生命的なものの輝きが、舞台で生き生きと再現されたのも事実である。マルケスの人物たちは、どこか動物的なところがあり、いわく言いがたい生命力を感じさせる。蜷川幸雄は、人物の舞台配置や動きなどが非常に巧みで、視覚的に美しい光景を作る演出家だが、マルケス作品を視覚化するという点では、成功したと思う。『百年の孤独』で印象的なのは、百年という時間が順に過ぎ去るのではなく、何か空間的に広がって可視化されているような感じを受ける。その理由の一つは、百歳を越えて生きる逞しい老女が、物語の全体を生き切るので、それが時間に「ねばり」のようなものを与えるからだと思う。『エレンディラ』もまた、「白い鯨」とあだ名される70歳超の祖母のキャラクターが圧倒的で、可愛らしいエレンディラやウリセスはむしろ脇役にさえ見える。マルケスでは、人間の肉体やさまざまな物体が「ものらしさ」を発散しているが、蜷川演出は、それをうまく舞台で再現できたのではなかろうか。