新演出の『フィガロ』(2)

charis2007-08-10

[オペラ]  フィガロの新演出(’06ザルツブルク音楽祭DVD) [2]


(写真は、第三幕最後の結婚式シーン。スザンナとフィガロ(ダルカンジェロ)の表情は暗い。)


演出のクラウス・グートは、たしかに才能を感じさせる。生とエロスを寿ぐ傑作喜劇『フィガロの結婚』を、苦悩と死の匂いで染め上げたのは、200年来初めてのことではないだろうか。綿密な計算がなければできない離れ業だ。そしてまた、このDVDは、実演とはまた違う印象を作り出している。舞台の上下に大きく伸びる階段を上から撮影するという、観客には不可能な視点を持つほかに、人物を適度な大きさにアップするカメラワークが異常にうまい。つまり、最初から映画的な作りを意識した演出なのだ。私は、伯爵夫人(レシュマン、北ドイツ出身)、スザンナ(ネトレプコ、ロシア出身)、ケルビーノ(シェーファー、ドイツ人)の顔が並んだとき、ベルイマンの『ペルソナ』を思い出した。伯爵のスコウフス(デンマーク人)もそうだが、全体の雰囲気が”北欧的”なのだ。グートは、この演出の着想を、イプセンストリンドベリベルイマンから得たと語っているが、三人とも北欧人だ。舞台となる巨大な階段の踊り場、そこに散乱する枯葉、外から入り込む光、そして全員黒ずくめの衣装などは、寒々とした印象を与え、スペインやイタリアとは正反対の雰囲気だ。そう、ベルイマンの”苦悩としての愛=エロス”が、この上演の基調なのだ。DVDでは、まさにベルイマン風に、苦悩する顔の表情が繰り返しアップされるが、これは、上演の観客にはよく見えなかったディテールのはずだ。


たとえば、第三幕冒頭の伯爵とスザンナの駆け引きを見てみよう。スザンナは伯爵を「たんにだましている振り」をするが、実は伯爵とも出来ている。それをうすうす感じている伯爵夫人の絶望的に悲しい表情がアップされる。駆け引きの最中、スザンナは伯爵に接吻されるや否や自分から狂おしく伯爵を抱く。セックスの体位になる二人。『フィガロ』三部作を書いたボーマルシェの原作では、伯爵夫人はケルビーノの子供を産むのだが、この上演では、スザンナもフィガロと伯爵の二股をかけているように描かれている。「浮気する振りをする」という当初のもくろみが、エロスの力に負けて本当の浮気になってしまうのが、この演出の基本解釈だと思われる。ネトレプコの演じるスザンナが終始陰うつで、皮肉っぽく嫌な笑顔しか見せないのは、理由があるのだ。インタビューでネトレプコは、「皆さんの期待するスザンナとは違うスザンナ像なので、成功的に演じるのはたぶん難しい」と語っている。(映像は、以下、You Tube)
第三幕冒頭 伯爵とスザンナの駆け引き
http://www.youtube.com/watch?v=Lg3CO8trCic&mode=related&search=


最近のヨーロッパのオペラでは、全裸の人物や、濃密な愛撫、セックスの体位などは珍しくもない。これらの是非は一概には言えない。だが、舞台の人間の動きについ気を取られて、音楽への集中力が鈍るとしたら、やはりまずいのではなかろうか。私は”守旧派”なのかもしれないが、『フィガロ』は素晴しい音楽に溢れているので、歌手は変にこむずかしい演技をするより、ただ立って歌ってくれればそれでよいという思いもある。また、最近の演出では、原作にはない登場人物がパントマイムをすることが多い。これも、音楽への集中をそぐという点で、マイナス面もある。しかし、歌の内容を補足するパントマイムの機能は、すべて悪いともいえないだろう。たとえば、第四幕のマルチェリーナのアリアの最後で、男たちのパントマイムが加わる。これは、「女の友は女」というマルチェリーナのフェミニズム的な線を補強するもので、男たちはつねに女を枠に嵌めたがるということを暗示する。
第四幕 マルチェリーナのアリア
http://www.youtube.com/watch?v=8zgLsIZtf6s&mode=related&search=


“苦悩するエロス”というグート演出『フィガロ』だが、ではすべて苦悩一色に染め上げられたかというと、そうでもない。第四幕のスザンナのアリア以降、この世のものとは思えない美しい重唱が続くフィナーレまでは、どんな演出をしようと、モーツァルトの音楽がそれに打ち勝って、愛と幸福と調和の奇跡を作り出してしまう。本作も例外ではない。ブログの批評などを読んだ限りでは、ネトレプコのスザンナには否定的な意見が多かった。だが、第四幕のスザンナのアリアは、従来の名演に劣らない素晴しいものだと思う。ネトレプコは、「この箇所は、指揮のアーノンクールから、バルカロール(舟歌)のように歌いなさいと指示された。美しいわよーっ」と語っている。シェーファー(ケルビーノ)のどこまでも澄み切った美しい声といい、スコウフス(伯爵)の苦しげな歌といい、音楽的にもなかなか見所の多い上演だと思う。
第四幕 スザンナのアリア
http://www.youtube.com/watch?v=PnJBWgMjVNY