J.フォード『あわれ彼女は娼婦』

charis2006-07-21

[演劇] ジョン・フォードあわれ彼女は娼婦』 
蜷川幸雄演出、渋谷コクーン


(写真はいずれも、兄ジョバンニと妹アナベラの交歓シーン。左上は、今回の公演、三上博史深津絵里。左下は、1993年、デヴィッド・ルヴォー演出、TPT公演、豊川悦司西牟田恵。右は、2002年3月、ニューヨークのウィメンズ・シェイクスピア・カンパニ公演。すべてのキャストを女性が演じた。)


ジョン・フォードシェイクスピアと同時代の作家で、『あわれ彼女は娼婦』は代表作。物語は、中世イタリア。名門の秀才青年ジョバンニは、たぐい稀な美貌の妹アナベラと相思相愛の関係になってしまう。罪の意識におののきながらも愛し合う二人だが、アナベラは妊娠。カモフラージュするために、アナベラは大急ぎで、彼女に求婚する青年貴族ソランゾと結婚する。生まれてくる子供をソランゾの子にみせかけるためである。だが、兄ジョバンニは複雑な心境だ。ところが結婚後、夫のソランゾはアナベラの不義の妊娠に気づく。しかもアナベラの乳母が、相手は兄ジョバンニだと秘密を漏らしてしまった。狂乱して復讐を誓うソランゾ。事態が露見したことを知ったジョバンニは、兄妹がソランゾに復讐されることを予知し、機先を制して、自らの剣で妹アナベラを刺し殺す。そして、アナベラの心臓を剣に串刺しにして高く掲げながら、ソランゾの誕生パーティに乱入する。大混乱。ソランゾと決闘して、ジョバンニはソランゾを殺すが、自分もソランゾの部下に殺されて、終幕。


兄妹のピュアな愛が近親相姦に陥り、破綻し、心中のような結末に終わる物語だが、重いテーマの難しい作品だ。キリスト教道徳への冒涜、結婚制度への挑戦、複雑な陰謀や関連の殺人が相次ぐという血生臭いストーリー、剣に串刺しにされた心臓というグロテスク。こうした要素がたくさん絡むので、近松の『曽根崎心中』『心中天網島』や、『ロミオとジュリエット』のように、男女の純愛だけが深く浮き彫りになるというわけにはいかない。本作は、エリザベス朝演劇の最後を飾る作品で、演劇を退廃の象徴として憎悪したピューリタンによって、1642年に劇場が閉鎖される直前である。近親相姦やグロテスクな臓器によって、人目を引こうとしたとすれば、演劇の一つの時代の”終焉”を意味する作品かもしれない。


T.S.エリオットは、この作品を、近親相姦という倒錯行為の普遍的意義を十分突き詰めていないと批評している(「ジョン・フォード」1932)。たしかにそうなのだ。近親相姦にもかかわらず兄妹の一途な愛を擁護する視線と、その破綻を冷静に見詰める視線とが共存している。たとえば、アナベラがソランゾに対して、身ごもった子の父親である兄を称える次の科白はどうだろうか。「あなたはそんなすばらしい方の子供の父親になれる、今はただその名誉を知るだけでがまんなさい。」つまり、夫に対して、「実は兄の子だが、それを喜べ」と開き直っているわけだが、妊娠を隠してソランゾと結婚したアナベラの行為は、肯定も否定もされていない。ここは何となく釈然としない。


そもそも、『あわれ彼女は娼婦 'Tis Pity She's a Whore』というタイトルは、劇の最後に枢機卿がこう語って終幕になる科白である。アナベラは高貴な家の娘であり、まったく娼婦ではないが、この「娼婦」という罵倒は、近親相姦のことを言っているのか、それとも、妊娠を隠して結婚した「奸智」を非難しているのか、どちらとも取れる。ジョバンニを演じた三上博史は素晴しい演技だったと思う。ジョバンニの人柄がよく分かったからだ。だが、アナベラ(深津絵里)がどのような女性なのか、今ひとつよく分からなかった。これは俳優よりは演出家の問題だろう。


案内のHPは以下、↓
http://bunkamura.co.jp/shokai/cocoon/lineup/06_aware/03_report.html