土井隆義『友だち地獄』(1)

charis2008-04-05

[読書] 土井隆義『友だち地獄−「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書、08年3月)


(写真は、ダリ:「ナルシスの変貌」 1937)


社会学者の土井隆義氏の前著『個性を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)は非常に優れた本で、私もブログに書評を書いた。↓
http://d.hatena.ne.jp/charis/20060909
今回の『友だち地獄』は、前著の視点をさらに拡大して、若者に起きているコミュニケーションの変容を多面的に捉えながら、現代日本に特有の”生きづらさ”の原因に迫ろうとする好著である。著者によれば、現代の子供や若者は、よく言われるようにコミュニケーション能力が低いのではなく、対立を避け、相手の内面に深入りせず、互いが傷つかないように細心の注意を払いながら、対人関係(氏の言う「優しい関係」)を生きている。そして、ネットやケータイは、自分を傷つけない他者とだけ「親密圏」を築けるので、こうした「優しい関係」幻想を助長する道具となっている。


そして現代の子どもや若者は(というより、私は大人も含めてそうなのだと思うが)、「優しい関係」への希求が非常に強いので、それを乱す「空気が読めない奴」を憎悪し、「いじめる」ことになる。しかし、互いの内面に深入りしない外面上の「優しい関係」の裏では、我々の一人一人は、内心では「この自分を見てほしい」という他者からの承認を強く求めている。このギャップの大きさゆえに、我々はコミュニケーションの不全感に悩まされ、孤独と無力の思いを深めてゆく。それだけではない。現代の情報化社会では、我々はつねに他者と客観的に比較され、偏差値化・相対化され、one of themでしかないことが鮮明なので、よほどおめでたい人でない限り、強い自己肯定感を持つことはできない。


この傾向をさらに助長するのが、選択肢の増加は価値の低下を齎すという豊かな社会の逆説である。現代の豊かな社会は我々の選択の自由を増やし、人生の選択肢を広げるが、そうであればあるほど、その中で自分が選び取る行為や価値はone of themとして相対化され、色あせたものになる(p185)。魅力的な選択肢が他にも多く残されているならば、私が「この選択」に固執する理由もそれだけ弱くなるからだ。自由と幸福は必ずしも相伴しないのである。本書は、学校における「いじめ」の変容、インターネットやケータイの役割、ネット集団自殺の分析など、優れた論点を幾つも含んでるが、今日は、このような選択の自由の増大が、自分の選ぶ価値の低下を招くという論点のみ、本文から引用しておきたい。残りの論点は、次回以降で見ることにする。


>望むものは何でも容易に手に入れられるようになったことで、さらにまた選択肢の幅も拡大してきたことで、それぞれの価値は互いに互いを低めあうようになっている。たとえ選択肢の間に序列がついていないとしても、いや、むしろ序列がついていないがゆえに、あらゆる価値は等しく低下する。ひとは、魅力的な選択肢が他にも多く残されているとなれば、特定の選択肢だけに固執することはなくなるからである。ほかの選択肢の可能性もつねに残されているという事実が、自ら選んだものの魅力を相対化し、その価値を低めてしまうのである。かつてと比べて男女が出会って恋愛する機会は増えているのに、いや、だからこそ、なかなか結婚へと踏み出せない人々が増えているのと同じである。(p185)


>可能性をいまから切り開いていくのではなく、すでに開かれていると感じられることによって、現実世界のリアリティは大幅に奪われてきた。たとえどんな選択肢を選んだとしても、それに代る選択肢の存在がつねに意識され、「いま選んだものは本物ではないかもしれない」という意識がそこにつきまとう。豊かな社会は、人々が享受しうる価値の総量の増大を必ずしも意味しない。選択肢の増加は、価値の細分化と相対化をもたらし、欲望を実現させることの魅力を削いできたのである。(同)


可能性がまだ自明ではなく、これから切り開いてゆかなければならない場合と、可能性が既成の選択肢としてすでに与えられている場合とでは、現実世界のリアリティの感じ方がまったく違うという指摘は重要である。我々の欲望の実現は、未知の未来を切り開く驚きや喜びと深く繋がっているので、選択肢の増大は必ずしも幸福の増大を意味するものではないのだ。