新国『ドン・ジョバンニ』

charis2008-12-09

[オペラ] モーツァルトドン・ジョバンニ』 新国立劇場


(写真右はジョバンニ、下は、全体がベネチアへ移された舞台光景。左側の人物はドンナ・エルヴィラとレポレロ。)

視覚的にも美しい古典的な演出で、『ジョバンニ』のデモーニッシュな側面が印象に残る優れた舞台だった。演出のグリシャ・アサガロフはプログラム・ノートでこう述べている。「ドイツ語圏の歌劇場で製作する場合、評論家たちが非常に現代的な演出を期待することが多いのですが、日本で製作する場合は古典的な感覚をやや増して作品により忠実に演出しやすくなるのです。」最近は、オペラの現代化演出が流行っており、たとえば、二期会宮本亜門演出『ジョバンニ』は、9・11に想を得て、貿易センタービルの瓦礫の山を舞台に、「ジョバンニの愛が世界を救う」というメッセージ性のある面白い上演だった。だが、原作とはかなり違う味わいになったことも事実である。それに対して、今回の新演出は、原作の精神をきわめて忠実に再現していると思われる。私が今までに見た実演の中では、もっとも納得のいく『ジョバンニ』だった。


モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』は、性的に放縦なジョバンニという<悪>が敗れ、地獄落ちして、ドン・オッターヴィオに代表される市民社会の<良識>が勝利する、というようなつまらない劇ではまったくない。今回の舞台で印象的だったのは、一見ジョバンニと対立するように見える、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィラ、ツェルリーナたちも実は、ジョバンニによって象徴される巨大なエロスの一部であり、そうしたエロスの全体が隠しようもなく死の影を帯びているという、戦慄すべき生の根本構造が露わになったことである。たとえば、第一幕フィナーレの舞踏会の場面。皆が軽やかな舞曲を舞う中で、ジョバンニはツェルリーナをレイプしようとして失敗するのだが、結婚を寿ぐ生命感の高揚の中で踊る農民たちは、目の覚めるような美しい衣装をまとい、しかも全員が仮面舞踏会のマスクを付けている。普通は、オッターヴィオ、エルヴィラ、アンナの三人だけが黒服に仮面を付けるのだが、踊り狂う農民たちも仮面を付けることによって、全体が「死」を引き寄せるような緊張が生じる。


ここで露わになっているのは、性的放縦と市民社会道徳の対立といった倫理的な何かではない。そうではなく、生命的なもの=エロス的なものの全体が、どうしようもなく死の影を帯びるという戦慄的な事態である。この舞台を見ながら、私は、フロイトの「死の欲動タナトス」のことを思い浮かべた。フロイト1920年ごろを境に、それまでの見解を変えて、愛と憎しみは本当に対立するものではなくエロスという一枚のコインの表裏であり、そうしたエロス的なもの=生命原理の全体に対立するものが「死の欲動」であるという構図に至った。フロイトの凄いところは、生命の存在そのものが、偶然的で、どこか「非本来的」であり、本質的な不安定さ・破壊性を胚胎していると考えたことである。この宇宙の全体を見れば、生命現象は例外中の例外でしかない。宇宙の99.9%以上は、太陽のような原子核反応とその帰結の世界であり、地球のように、生命を可能にする化学反応が起きている場所など、他のどこにもない。つまり、この宇宙は「死」があまねく普遍的で正常な状態なのであり、生命は、まったくの「非正常」、つまり「異常」な存在なのだ。とすれば、生命とは、本来は存在しない可能性が高かったにもかかわらず、どういうわけか存在してしまった余計物である。だから、生命はつねに不安定でアンバランスで、自己を崩壊させて死へと戻ろうとする。生殖行動によって子孫を残そうとする狂おしいエロスの運動全体が、死へと回帰しようとする物質本来の大傾向に対する絶望的な抵抗という、宇宙の片隅の一エピソードでしかないのだ。


フロイトのこのような構図に透かしてみれば、『ドン・ジョバンニ』はとてもよく分かる。ドンナ・エルヴィラは、あれほどジョバンニを憎みながら実は深く愛してもいる。愛と憎しみはエロスの分かちがたい両面なのだ。では、ジョバンニと外的に対立するように見えるドンナ・アンナはどうか? 彼女はどこまでも「父の娘」である。愛する父(=騎士長)を殺された彼女の心は、もはや亡き父にしかない。婚約者のオッターヴィオを彼女はとても冷たく扱う。アンナのジョバンニへの憎しみは、父への愛の裏返しであり、アンナは父への愛に生きるエロス的な存在である。そして、言うまでもなくツェルリーナは、結婚式当日に夫のマゼットを差し置いてジョバンニに色目を使う「好色娘」である。彼らはみな、ジョバンニという大いなるエロスの同族であり、分身である。騎士長の死んだ肉体は宇宙の塵芥に帰すべきなのに、石像となって生きているというおぞましさは、エロスとタナトスの抗争と考えられるべきだろう。ジョバンニが地獄落ちした後の、短いフィナーレも、幸福な大団円などではなく、残されたエロスたちの燃え殻である。エルヴィラは修道院に入り、アンナは結婚を一年延期する。「おうちに帰ってご飯を食べよう」と言うツェルリーナと、「新しい主人を探さなきゃ」と言うレポレロは、縮小再生産された生命=エロスの、ささやかな"つぶやき"なのだろう。


歌手では、ドンナ・エルヴィラを歌ったポーランド人のアガ・ミコライ、ドンナ・アンナを歌ったルーマニア人のエレーナ・モシュクが素晴らしかった。ツェルリーナを歌った高橋薫子は、しっとりとした歌い方だったが、もっと弾けるような感じがほしい。