グルーバー演出『ドン・ジョバンニ』

charis2011-11-23

[オペラ] モーツァルトドン・ジョバンニ』11月23日、日生劇場

(写真下は、舞台スケッチ、2番目は、左よりエルヴィラ、ツェルリーナ、マゼット、3番目は、アンナとオッターヴィオを囲む女たちの「霊」)


二期会とライン・ドイツ・オペラの共同制作。ドイツの気鋭の演出家カロリーネ・グルーバーの、斬新な演出が冴えていた。彼女の志向は、ジョバンニと彼をめぐる人々の欲望が鏡のように互いに映し合う世界、自己の欲望が他者の欲望によって作られる、ラカン的な世界である。舞台の全体が傾いており、ジョバンニの心の中の世界であるかのように設定されている。舞台には、ラカンの「想像界l'imaginaire」さながらに、多様な表象=イメージが張り巡らされる。ギリシア神話のような美女の絵が、何枚もの巨大な布に描かれ、舞台のさまざまな位置に、電動装置で上下左右を動きながら設置される。そして、女たちは、その下に立ち、見上げ、しばし凝視する。あたかも自己の鏡像を見つめるように。舞台の正面の奥の壁には、小さな扉が並んでおり、そこからも人が出入りする。これは、心の中の世界の記憶の扉なのだろう。扉の奥は無意識の世界なのかもしれない。


レポレロの「カタログの歌」では、ジョバンニの過去の女たちが「霊」のように多数現れて、舞台を非常にゆっくり歩む。時間の中で凍り付いたような、この非常に遅い動きがとても効果的だ。生身の女ではなく、表象の女、イメージの女たち。白っぽいウェディングドレスを思わせるような衣装が多いのは、女たちの結婚への欲望を象徴している。だがジョバンニの意識には結婚という文字はなく、時間の中をただ流れてゆく無数の表象の女だけが彼の欲望の対象なのだ。キルケゴールが言うように、ジョバンニは一人の個人の女を愛さない。彼の欲望は、抽象度の高い「類」としての女に向かう。女の個体というものはいらないのだ。「カタログの歌」で登場した「霊」としての女たちが、ツェルリーナとマゼットの結婚前の祝いのシーンになるや否や、そのまま農民の娘たちになるのは、とても巧い。ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィラのような貴族の女も、農民の娘も、どんな女もジョバンニにとっては無差別のものだから。


通常の舞台では、エルヴィラはやや突出した存在だが、グルーバー演出では、アンナやオッターヴィオと対等な存在に見える。彼女もまた、one of themとしての女なのだ。舞台にはほとんどいつも過去の女たちの「霊」がいるし、ツェルリーナも序曲の前から最後まで舞台のどこかにいることが多いので、エルヴィラなどの主要人物だけが登場する場面というのはあまりない。皆がいつも一緒にいるのは、結局、全体が「現実界」ではなくジョバンニの心象風景だからだろう。


ドンナ・アンナの扱いも普通と違って、冒頭の寝室の「襲われる」ときからしてジョバンニとすでに出来た関係になっている。ジョバンニは最後は一応地獄(=オケピット)に落ちるけれど、すぐニコニコしながら戻ってきて、すべての女たちを抱き、相思相愛であることが示される。最後、騎士長の亡霊も巨大な石像ではなく、カトリック神父姿で現れるので、怖さがなくコミカルになっている。要するに、ジョバンニは、まったく罰せられないのだ。


最初から、ツェルリーナとマゼットだけは、異世界の若者がジョバンニの世界に紛れ込むという想定で、二人だけが現代のカジュアルな服を着ている。ツェルリーナは、徹底的に今風のキャピキャピした都会娘に造形されていて、とても可愛くて素晴らしかった。いつも思うのだが、終幕の彼女の最後の言葉「おうちに帰ってご飯が食べたい」は、このオペラで最高の台詞。女たちの衣装の白がとても印象的だったが、担当のザイペルは演出家アンドレアス・ホモキと長い間仕事をした人らしい。なるほどホモキ演出『フィガロ』とよく似ている。

(写真は以下の「クラシック・ニュース」より借用しました。↓
http://classicnews.jp/c-news/index.html)