[演劇] 原田一樹脚本・演出『ドン・キホーテ』 静岡芸術劇場
(写真右は、ギュスターブ・ドレの、下は、ピカソの絵)
セルバンテスの長編小説『ドン・キホーテ』を演劇化する試み。上演は2時間。原作『ドン・キホーテ』は、風車に突っ込むドン・キホーテの冒険譚などが有名だが、冒険譚の部分はあまり面白くない。むしろ『ドン・キホーテ』の面白さは、登場する女性たちと、彼女たちを追いかける男たちの途方もなく涙ぐましい喜劇にある。たとえば、ドンキホーテは「思い姫」という憧れの女性を胸に秘めている。中世の騎士はすべて、自分が愛を捧げる女性として「思い姫」を持っていた。騎士が戦うときには、神ではなく自分の「思い姫」に祈る(まぁ、非キリスト教的な面白い話ではある)。だが、ドンキホーテが女神のように崇めている「思い姫」の「ドゥルシネーア姫」は、近所の村のおてんば娘である。「なにしろ村中でいちばん力のある若い衆にまけねえほど遠くに鉄棒を投げ飛ばす娘。・・どっしりとたくましくて背も高く、それこそ胸毛でも生えていそうな娘・・・、しゃきっとしていて気風がよく、誰とでも冗談を言い合うし、何に対しても平気で諷刺のきいた洒落をとばす娘」(岩波文庫『ドン・キホーテ』第2巻p112)。だがドンキホーテは、「ドゥルシネーア姫」に会ったことはないので、心の中で、それはそれはつつましく清楚な美女を妄想している。
要するに、男が心の中に抱く女性像は、とてつもない幻想なのだというのが、『ドン・キホーテ』の主題の一つである。また、小説という新しいジャンルを創造した『ドン・キホーテ』は、テキストの複雑なメタ構造という特徴をもっている。作者が記録文書を偶然見つけたという書き出し、騎士物語という書物の読み過ぎによって騎士になったドンキホーテ、そして、後編の偽作に対抗して真作の後編が刊行されるという出版の経緯。物語も、ドンキホーテとサンチョ・パンサの旅は一種の「地」であり、その上にたくさんの別の物語が「図」として描かれる。「地」よりも「図」の方が面白いのだ。あるいは、それまで文芸の中心であった詩と演劇に対抗して、散文という新しい表現様式を切り開こうとするセルバンテスの意欲が、作中人物の口を通して熱っぽく語られもする。よい書物とは何かという論争も白熱。
そのような多層な原作『ドン・キホーテ』を、劇団キンダースペースを主宰する劇作家の原田一樹が演劇化した。物語を、前編の宿屋でのどたばたと、後編の公爵邸でのどたばたを中心に構成し、喜劇的なドン・キホーテの人物像を前景化して、その滑稽さが切なさへと変容していくさまを舞台化した。複雑なメタ構造が入り組む原作の中から、うまく演劇的な要素を取り出し、再構成しようとした原田の努力は高く評価すべきだろう。だが、演劇として面白い作品であったかという点になると、いささか疑問である。一番まずいのは、原作には(人違いの他は)実物が登場しない「ドゥルシネーア姫」を宿屋の女中(?)にしてしまったことだ。ドン・キホーテが心の中で妄想する「思い姫」は、あくまで妄想であるからこそ「思い姫」なのであって、きっぷのいい宿屋の女中として目の前で”肉体化”されてしまったのでは、我々観客の妄想が萎えてしまう。読者の想像力にドンキホーテの妄想を”ともに描かせる”ことが、物語の不可欠の要素なのに、それがなくなると、変なオヤジと品のない女中とのたんなるドタバタになってしまう。男の女性妄想を茶化すというなら、シェイクスピア『十二夜』のマルヴォーリオなどの傑作例があるが、ドンキホーテの女性妄想を演劇化することはなかなか難しいように思う。役者では、ドンキホーテ役の三島景太と、「思い姫ドゥルシネーア」兼宿屋の女中を演じた本多麻紀がとてもよかった。