野田秀樹『パイパー』

charis2009-02-17

[演劇] 野田秀樹『パイパー』 渋谷、シアター・コクーン


(写真下は、妹ダイモス(松たか子)と姉フォボス(宮沢りえ)。終幕近く、滅び行く火星から金星へと人々が我がちに逃げる修羅場で、二人は火星にとどまる。スポーツ報知の画像を借用)

『ロープ』以来、ほぼ二年ぶりの大劇場向け新作で、完全なSF仕立ての作品。今から千年後の火星が舞台。地球から火星に人間が移住してから900年、火星では、肉はもちろん野菜を食べることも、動植物という生き物を食べる「野蛮」なこととされ、禁じられている。人間は、固形の人工食物を食べて暮らしている。また、パイパーと呼ばれる先端技術を駆使したロボットが、人間の暴力を吸収し無重力に変える緩衝装置になっている。パイパーは「8の字」の形をしており、それは「無限大∞」を縦にした形だ。火星では幸福度を数値で表しており、8888は「無限の幸福」、最大多数の最大幸福を意味している。だが、皮肉なことに、人間の暴力を吸収するはずのパイパーは、偶然、とんでもない役割を果してしまった。火星の極で食べるものがなく死にそうな人間を救うために、パイパーは、人間の死体を彼のところに運んだ。そして彼は、人間の肉を食べて生き延びた。植物も含め一切の生き物を口にしないはずの火星の人間が、人間の肉を食べるという逆説。それが火星の人間に対立と暴力をもたらし、火星は荒廃する。


野菜を栽培して食べることを覚えた人間は、火星では「ベジタリアン原理主義者」として非難されるので、金星に移住して、金星では野菜を食べて暮らしている。火星では結局、植物や動物という人間以外の生命の発生がないので、人間の生存の基盤が欠けることになった。地球ではとっくに人類は滅亡し、金星から火星に救済の宇宙船が来た。多くの人間がその宇宙船に乗ろうと殺到する修羅場に、4歳の娘フォボスを連れた母がいた(上記写真、妹ダイモスが、その母を同時に演じる)。だが、フォボスの母は火星に残る。飢えた母は、あるストア(食料品店)を見つけるが、その店長ワタナベ(橋爪功)は怪しい男で、実は地下室に隠した人間の死体を食べて生きている。ワタナベ「さあ、これを食べなさい」、母「いえ、これは食べるものではありません」、ワ「何で?」、母「だって、人間ですから」、ワ「これが人間だから食えないのかい? それとも、あなたが人間だから食えないのかい」、母「たぶん、その両方」。そして、母は、娘のフォボスに肉を食べさせ、自分は、腹の中の赤ん坊を産んで死んだ。その赤ん坊が妹ダイモスである。


それから30年。ワタナベとフォボスは、この凄惨な記憶を妹のダイモスに隠しながら、ストアに残された固形食物を食べながら生きてきた。やや意地悪な姉と、天然ボケ系の優しい妹。だが、火星はいよいよ終末の時が迫っている。姉は、放浪に行ったまま帰らない恋人をひたすら待っている。妹は妊娠したが父親は誰だか分からない。旅立とうとする妹ダイモスは最後に姉に言う。
ダイモス「(お腹に手を当てて)わたしにはわかるよ。4歳の姉さんにその肉を食べさせた母さんの気持ちが。子供はまだ人間じゃないの。だから、何を食べても大丈夫。何でも噛み砕くのよ。」
フォボス「私は、噛み砕けなかったのかな。口の中にいつまでも残ってる。」
ダイモス「何が?」
フォボス「人間・・・であること。」


この最後の会話は、終末の滅びの中に差す一条の光、救済の黙示録ともいうべき色合いをもっている。私はここで、チャペックの『ロボット』を思い出した。人間が滅びた後に残ったロボットたちは、機械の耐用年数がくれば滅びざるをえない(人工食を食べ尽くすしかない火星の人間のように)。だが、最後に残った若い男女のロボットは、これまで存在しなかった「愛」の感情を初めて経験する。ひょっとすると、そこから赤ん坊が誕生するかもしれない。ピノキオが人間になったように、人類が滅びた後のロボットたちから、新しい人類が再び生まれるかもしれない。しかし、そうならないかもしれない。同じことがこの作品にも言える。フォボスダイモス姉妹が生き延びるか、滅びるか、それは誰にも分からない。でも、それでも生きる方に賭けるのが人間というものである。最後に姉妹が言い交わすように、「希望が絵空事なら、絶望もまた、それと同じくらい絵空事」だから。


野田秀樹には、滅びや死を通じた新しい生命の転生というモティーフが、他の作品にも共通して見られる。ただ、本作のようなSF作品になると、以前の野田劇がもっていた異文化の重層性が薄れて、やや一元的な単調さと思弁的になったことは否めない。たとえば、『キル』では、モンゴルの大平原を駆け回るテムジンと世界を制覇するファッションデザイナーという斬新な組み合わせ。『贋作・罪と罰』では、ドストエフスキーの世界と幕末の青年志士たちが重ね合わされ、『パンドラの鐘』では、長崎の原爆と古代の王朝とが何度もワープした。本作では、過去の記憶がバーチャルにCG映像化されるという時間のワープはあるのだが、異文化の越境に乏しい。その結果、終末論的な重苦しさがつねに漂うので、せっかくの言葉遊びがあまり生きてこないうらみがある。従来の野田劇では、異文化の越境が、時空全体に軽みと疾走感を与えていたからだ。


今回は、幸運にも最前列で観劇できた。6ヶ月の身重の身で走り回る宮沢りえの迫力、松たか子の初々しさが印象に残る。ただ、二人に比べると、ワタナベを演じた橋爪功はやや枯れ過ぎではないだろうか。もう少し強く「毒」のエネルギーを感じさせてもよかったかなと思う。