[映画] 宮崎駿『君たちはどう生きるか』

[映画] 宮崎駿君たちはどう生きるか』 Movixさいたま 7月16日

静かで深い感動が残る傑作だ。『風の谷のナウシカ』とよく似た主題で、神話と現代が交錯する。人間たちは憎しみや戦争によって、世界の終りがもうそこにあるが、一人の少年と一人の少女が協力して、愛と友情の力で世界の滅びに立ち向かう。何人かの家族や女中と、鳥である一羽のアオサギが、その戦いに参加する。ナウシカの場合と違って、「真人(まひと)」という少年が主人公だが、神話の世界に紛れ込んだ彼と協力する一人の少女は、真人の死んだ母が十代のときの少女なのだ。つまり、世界の滅びに立ち向かうのは、抽象的な愛と友情のアレゴリーではなく、親、子、大叔父などの先祖、生まれてくる赤ん坊など、生命の繋がりをもつ家族愛なのだ。父の実家に働く老婆の女中も、神話世界では若い女性となって、真人を救う。その真人の母は戦争中の火事で死に、父は母の妹と再婚する。が、新しい「母」と真人の関係は微妙で、神話の世界で真人と再会した新しい「母」は、どこか真人を憎んでいるようでもある。彼女が赤ん坊を産もうとするとき、その部屋に真人が入っていったので、彼は生命誕生の「禁忌を犯した」らしいのだが、これが物語の中で何を意味するのか、よく分からなかった。

 

真人に友情を示す一羽のアオサギを除いて、ペリカンやインコの群れなど無数の鳥たちは、互いに憎しみ合う人間の比喩であることが分る。しかし彼らは、憎しみに溢れる人間世界の被害者でもあるようだ。世界を構成する要素として、「石」「火」「水」「樹(森)」の四つが挙げられ、「石」と「火」が滅びのメタファー、「水」と「樹」が生命のメタファーであるのは『風の谷のナウシカ』と同じだが、本作では、真人の母である少女は、神話世界で「火」の魔法を使う。だから「火」は生命のメタファーでもあり、「生」と「死」の両方に関わる二義的な存在なのだ。それに対して「石」は生命なきもので、一貫して否定的な存在だが、真人の大叔父は神話世界で13個の美しい幾何学的形態をもつ「悪意のない石」を真人に渡す。これは文明を作り出す「知」の比喩なのか。

 

映画全体を通じて、景色を描き出す深みのある「絵」が素晴らしい。ただ、世界の滅びに立ち向かう、愛と友情のアレゴリーとしての少年/少女という主題は、やや抽象的な難解さがあり、子ども向きではないと思う。『風立ちぬ』もそうだったが、宮崎駿の最後の作品は、大人でないと、物語の深い感動を十分に味わうのはむずかしいのかもしれない。

 

この映画は、何を言いたいのか分からない作品ではない。この世の終りに立ち向かう真人たちの闘いは、まず何よりも自分たちが「人間らしく生きること」である。人間らしく生きられないことこそが、この世を終らせるからだ。そのことが観客に伝われば、それで十分だ。吉野源三郎君たちはどう生きるか』には、こうあった。「コペルくん、人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、それは、君[自身]が本当に人間らしく生きて見て、その間にしっくりと胸に感じ取らなければならないことだ。・・はたから誰かが教え込めるものじゃあない」。この映画では、真人やその母、そして家族たちは、まさに「人間らしく生きよう」と必死にもがいている。それがこの映画の主題だから、『君たちはどう生きるか』は、きわめてまっとうなタイトルだ。