『偽りの女庭師』

charis2010-02-18

[オペラ] モーツァルト『偽りの女庭師』 東京室内歌劇場公演 紀尾井ホール

(写真右はポスター。下は、2003年フロリダ・グランド・オペラ、2006年ザルツブルク音楽祭、2006年チューリッヒ歌劇場の公演。現代的演出が流行っている。)



モーツァルト18歳の作で、とても楽しいドタバタ喜劇。題名からして混乱している。「Die verstellte Gaertnerin aus Liebe 愛ゆえに偽装した女庭師」が二通りに短縮されて、「偽の女庭師」と「愛の女庭師」の両方が使われている。台本作者も不明。でもオペラは当時大好評だった。物語は、男女幾組ものペアが片思いの関係にあり、しかも、A男はB女を、B女はC男を、C男はD女を愛するというように、愛情のベクトルがさらに一方向に伸びて鎖のように繋がっている。彼らは一度捨てた元カレだったり元カノだったりするのだが、上流階級の男女である。そこに召使いのE男がF女を、F女がG男を、G男がD女をという庶民階級の別の片思いの鎖が交叉して、どうにもならない混乱が生じる。こうなるのもヒロインのD女ヴィオランテは、本当は侯爵令嬢なのだが、かつての恋人C男(伯爵)を探すために、変装して、庭師サンドリーナとして働いているからである(これがタイトルの意味)。侯爵令嬢であり、かつ労働者階級でもあるという彼女の二面性が、階級を越えたドタバタ劇を可能にしている。


類型化されたキャラクターなど、コメディア・デラルテの伝統を感じさせる喜劇なのだが、ヴィオランテだけは必ずしも喜劇キャラではなく、それに加えて悲劇的な要素ももっている。『フィガロ』の伯爵夫人に似ていると言えようか。この作品は、最近は現代的演出が多く、ザルツブルク音楽祭でのドーリス・デリエ演出は、現代のガーデニング会社の社員たち(たしかに庭師ではある?)の物語に置き換えていた。今回の飯塚励生演出は、なかなか凝ったもので、序曲の場面でスクリーンに映像が映され、1905年、日露戦争終結の年であることが示される。そして、ヨーロッパで盛り上がっている婦人参政権運動の只中に、この物語が設定される。場所は、広い庭のある高級ホテル。若く美しい女性たちが、「ふせん(=婦人選挙権)なくして、ふせん(=普通選挙)なし!」と叫んで、行進したり、踊ったり、ビラを撒いたりする。


要するに、フェミニズムという文脈の中で物語を活性化しようという試みなのだ。元の物語では、男も女も独りよがりで滑稽な求愛をするので、求愛された方はただもううんざりしてイヤイヤ表示するのだが、しかしその求愛された方も、同時に、さらに別の男女をとてつもなく独善的に求愛してるじゃん、というのが笑いネタの中心である。伯爵の婚約者アルミンダ、召使セルペッタなどは、独りよがりの「強い女」であり、一方、ヒロインのヴィオランテは、一度自分を捨てた伯爵の求愛を、優しく、上品に、しかし毅然として退け続ける。でも本当は、彼女も伯爵を愛しており、この拒絶は伯爵を試練にかけるための演技なのだ。このように、女の「強さ」と男の「惨めさ」が物語の基調にあることはたしかなのだが、しかしそれを、婦人参政権運動という政治的なフェミニズムの文脈に置くことが成功したかどうかは、かなり疑わしい。全体が何ともいえず、ちぐはぐな感じになった。『フィガロ』にはフェミニズム的要素があり、それがオペラで成功しているのだが、『偽りの女庭師』はやや違うのではないか。喜劇の基本構図は、にっちもさっちもいかなくなった対立が、偶然を通じて一気にほどけて解決し、めでたしめでたしになるところにあるのだが、これをフェミニズムと重ねるのはなかなか難しくもあるだろう。完全な現代化ではなく、1905年に設定したというのは、服装なども自然で、なかなかよいアイデアだと思うのだが。


音楽的には、この作品は『フィガロ』に似たところがあり、人がだんだん増えて、美しい重唱へと発展していくところが、際立って美しい。今回の舞台は、歌手の「熱演」は目立つが、音楽的アンサンブルという点で、やや荒さがあると思う。2004年10月のモーツァルト劇場公演(新国)では、全体が若々しく弾けるような魅力に溢れていた。今回は、演出が凝った割には、音楽がついていっていないように思われた。