『ムツェンスク郡のマクベス夫人』

charis2009-05-04

[オペラ] ショスタコーヴィチムツェンスク郡のマクベス夫人』 新国立劇場


(写真右は、カテリーナとセルゲイの結婚式シーン。下は、カテリーナをいじめる舅のボリス。原作の場面を、一世紀後の1950年代に変えた演出。もう一枚は、カテリーナの寝室。光線を変えて何通りもの色彩を作り出している。)

ショスタコーヴィッチが24歳頃に作曲したといわれる本作は、青年の才気ほとばしる瑞々しい音楽だ。1934年初演、大変な好評で、その後2年間に177回も上演され、海外でも上演された。だが、1936年に見たスターリンが怒って中途退席し、直ちにプラウダ社説が「音楽ではない混沌、・・・これは人間の音楽ではなく、極左的な混沌だ。無意味な音の遊びにすぎず、とんでもない結果を招く危険がある」と批判したので、上演されなくなった。原作は、レスコフの小説(1865年)で、「マクベス夫人」という名は、たんに「悪女」の比喩であり、物語は『マクベス』とは無関係。ロシアの裕福な商人に後妻として嫁いだカテリーナは、夫や舅にいびられて苦しみ、新人のイケメン使用人セルゲイと恋仲になり、夫と舅を殺害する。が、二人の結婚式の最中に、殺した夫の死体が酒蔵から発見され、二人は逮捕されてシベリアへ送られる。セルゲイには新しい愛人ができ、カテリーナは棄てられる。カテリーナはその新しい愛人を道連れに、川に飛び込んで自殺し、終幕。


イプセンの『人形の家』を過激にしたような作品で、虐げられた女性が自由になろうとして犯罪を犯す悲劇。女性解放というモチーフが背景にあるので、血生臭い不倫ドラマにもかかわらず、革命後のソ連や海外で大人気を博したのだと思われる。今回のリチャード・ジョーンズ演出は、英国のロイヤルオペラ公演(2004年)の再演。私は実演を見るのは初めてだが、なるほど素晴らしい作品だ。何よりもまず、噴出するようなエネルギーが全篇に満ち溢れており、目を覆うレイプ場面もある野蛮な舞台に、軽快で諧謔あふれるショスタコーヴィッチの音楽が次々に炸裂する。悲劇的で暗い話なのだが、全体に「音の遊び」が満ち満ちており、それがこの作品を傑作たらしめている。「これは人間の音楽ではなく、極左的な混沌だ。無意味な音の遊びにすぎず、とんでもない結果を招く危険がある」というスターリンの"感想"は、いい線をいっている。これはまさに、革命後のソ連で、ショスタコーヴィッチという天才が生み出した、実験的で「極左的な混沌」がまばゆいばかりに輝く「音の遊び」なのだから。たぶん生真面目なスターリンは、「音楽」を「音の遊びを楽しむこと」とは考えなかったのだ。スターリンが「だからダメなんだ」と言ったところを、我々は「だからいいんだ」と言うだけの違い。たとえば、カテリーナとセルゲイの性交を音楽で表現する「ポルノフォニー」(そんな言葉があるとは知らなかった)では、馬のギャロップのような軽快な音の流れの中に、ときどきラッパが「ぷわーん」と鳴り、射精を表す太鼓の「ダ、ダーン」という大音響で果てる。実に楽しく、笑わせてくれるじゃないか。「健全な社会主義リアリズム」ではないかもしれないが、それがどうした。(写真下は、使用人たちに暴行される女中アクシーニャ。とても字幕にできない下品なロシア語が連発されると言われるシーン。)


ショスタコーヴィッチの音楽といえば、たとえばチェロ協奏曲2番にみられるような「暗い美しさ」がまず思い浮かぶが、一方では、軽快で、リズミカルで、前へ前へと進んでいくような旋律もまた彼の音楽の特徴だろう。このオペラでは、アメリカの軽音楽風の旋律など、後者の側面が印象的だが、それでもところどころに暗く美しい音楽が顔を出す。この軽やかで変幻自在な音楽が、野蛮な物語と混沌と混じり合っている。指揮はミハイル・シンケヴィッチ。オケは東京交響楽団


私の持っているDVDは、2006年アムステルダム歌劇場の公演で、ヤンソンス指揮、マルティン・クシェイ演出。クシェイは、やはり2006年のザルツブルク音楽祭で、下着ショーのような『ドンジョバンニ』を演出した人だが、『マクベス夫人』でもやたらと裸が出てくる。そして、全体がとても暗くて重い。それに対して、本公演のジョーンズ演出は、露骨な性描写は少なめにして、諧謔と笑いに満ちている。ずっと優れた演出だと思う。