アブラハムとイサク

charis2010-06-27

[読書]  旧約聖書『創世記』第22章

(写真は、レンブラントによる「アブラハムとイサク」)
若い人たち旧約聖書の読書会を始めた。まだ『創世記』を読んだだけだが、第22章、アブラハムによるイサク奉献の物語は、いろいろなことを考えさせる。まず、アブラハムが動揺したり悲嘆にくれたりすることがまったくないのが不思議だ。『アウリスのイフィゲネイア』におけるアガメムノンは、娘イフィゲネイアを生贄に捧げるように神託を受けて、苦悩し、泣き、生贄を決意するまでに懊悩する長い時間が必要であった。ところがイサク奉献のアブラハムには、いささかの感情の揺れもなく、事態は淡々と進み、妻サラや息子イサクにも、生贄の件については何も語られない。要するに、ヤハウェによる生贄の命令は、家族にも一切秘密にされ、アブラハムしか知らないのだ。本人にも妻にも黙って息子を殺すなどというのは、普通の感覚をもった人間のできることではない。


次に不思議なのは、アブラハムがイサクに語る次のような言葉である。前後を含め、テキストから引用しよう。


>イサクは父アブラハムに呼びかけた、「父よ」。彼は言った、「子よ、何か」。イサクは言った。「ここに種火と薪はあります。でも、全焼の供犠となる羊がいません」。アブラハムは言った、「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」。二人は一緒に進んで行った。
 彼らは神が示した場所にやって来た。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べた。そして、息子イサクを縛り、祭壇上の薪の上にのせた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。すると、天からヤハウェの使いが彼に呼びかけて、言った、「アブラハムアブラハム」。彼は言った、「はい、ここに」。使いは言った、「少年に手を伸ばすな。彼に何もしてはならない。いま、分った、あなたが本当に神を畏れる者である、と。あなたは私のために息子さえ、あなたのひとり子さえ惜しむことをしなかった」。
 アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一頭の雄羊が藪に角を取られていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに全焼の供犠として捧げた。


問題は、アブラハムの言った、「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」という言葉である。事態は直後にアブラハムの言葉通りになるのだから、これはあたかも「予言」のように聞こえないだろうか? つまり、アブラハムは事態がこうなることをあらかじめ心中密かに確信していたのではないだろうか? アブラハムの苦悩や動揺が、つまり彼の心中がまったく描かれておらず、事態が外面的かつ機械的に進む以上、このように疑うことも可能ではないだろうか。だが、もしそうだすると、アブラハムのイサク奉献は、たんなる茶番じみた芝居になり、試練の物語ではまったくないことになってしまう。そうでないとすれば、「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」というこの言葉はどう解釈されるべきなのか。キルケゴールは、アブラハムのイサク奉献を論じた書『おそれとおののき』において、次のように述べている(白水社版著作集第5巻p190〜197)。


>もしこの言葉がなかったら、この出来事全体には何かが欠けていることになるであろう。もしこの言葉がこれとは違っていたら、おそらくすべては混乱に陥ってしまうであろう。

>そこでたとえば、アブラハムが最後の瞬間に、イサクに向って、それはお前なのだ、と言ったとしたら、それは弱さを示すにすぎないであろう。なぜなら、もしいやしくも彼が語ることができるのであったら、彼はずっと前に語らねばならなかったであろうし、・・・そのときもしアブラハムが、わたしは何も知らない、と答えたとしたら、彼は非真実(いつわり)を言ったことになるであろう。彼を何事かを言うことができない、つまり、彼は彼の知っていることを言うことができない。そこで彼は、子よ、神みずから生贄の子羊を供えてくださるであろう、と答える。

>彼はなんら非真実(いつわり)を言っているのではない。しかしまた、彼は何かを言っているわけでもない、なぜなら彼は異邦人の言葉で語っているのだからである。


キルケゴールの解釈では、アブラハムのこの言葉は「異邦人の言葉」、つまり、イサクやその家族、つまり共同体を生きる同胞には通じない、別の次元の言葉なのだ。キルケゴールは「倫理」の次元と「信仰」の次元を峻別する。「倫理」の次元で言えば、アブラハムは、家族にも黙って息子を殺そうとした犯罪者であり、殺人者である。だが「信仰」の次元では、「個別者が個別者として絶対者に対して絶対的な関係に立つという逆説」(p197)を生きる「信仰の騎士」である。


「倫理」の次元では、アブラハムは語る言葉を持たない。生贄の羊はどこ?とイサクに問われて、「それは、お前のことだよ」とも、「さあ、どこにいるのだろうね、私は知らないよ」とも言うことはできない。とすれば、ありうる唯一の言葉は、倫理を超越した異邦人のそれ、「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」というこれ以外ではありえない。


>しかしアブラハムを理解することは何人にもできなかった。それにしても、彼は何をなしとげたというのであろうか? 彼はどこまでも彼の愛に忠実であり続けたのだ。しかし神を愛するものは、涙を必要としない、驚嘆を必要としない、彼は愛において苦悩を忘れる。いや、もし神みずからがそれを思い出させたもうのでなければ、彼が苦痛に悩んだことを夢にも感じさせるような跡を残さないほど完全に、彼はそれを忘れたのである。なぜなら、神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである。(p197)


アブラハムが苦悩と動揺を見せなかったことも含めて、さすがにキルケゴールは見事な解釈を提出している。しかも、最後の文章はマタイ伝から取られており、生贄に差し出したわが子を救い出すというイサク奉献の物語を、はるか後世のイエスの復活と重ねているようにも読める(デリダ『死を与える』p194)。だが、「苦痛の痕跡も残さないほど完全に」アブラハムの内面のドラマが遂行されてしまっているならば、アブラハムの言葉は、「異邦人のそれ」であるだけでなく、事態を完璧に予言するかのように響く「パロディー」と紙一重のところにあることも事実なのである。