ヤハウェという神(1)

charis2010-07-26

[読書]  旧約聖書出エジプト記』(岩波版、旧約聖書第2分冊)


(写真は、エジプトのヒエログリフに記された「ヤハウェYahweh」の名。)


出エジプト記』は、神ヤハウェの異様さが際立っている。『創世記』では、ノアの洪水や、アブラハムのイサク奉献など、ヤハウェが過酷な神であることには違いないが、「生めよ、増えよ、地に満てよ」というヤハウェの言葉と祝福を受けたノアの子孫たちが繁栄する物語になっている。民族創生の神話として、納得できる内容といえよう。だが『出エジプト記』は違う。ヤハウェは、我々の理解を絶するような異様な行動をする神であり、読む者には、何ともいえない後味の悪さが残る。傍若無人というならまだ分るが、ヤハウェは、粘着質で、すこぶる性格が悪い。


たとえば、イスラエルの民をエジプトから退出させるために、ヤハウェは魔法を使ってエジプトに災害を引き起こす。だが、ファラオ側も負けてはおらず、魔術師を動員して対抗し、同じ魔法を自分たちもやってみせる。杖を蛇に変える、ナイル川の水を血に変える、ナイル川から無数の蛙が陸に上がるという三つのヤハウェの魔法は、ファラオ側も再演してみせるので、ファラオを動揺させることはできない。しかし、ヤハウェが魔法のレベルをワンランク上げて、ぶよを全土から発生させると、もはやファラオ側の魔術師たちは再演できなかった。そして、あぶを全土に発生、疫病の発生、腫れ物と炎症を引き起こす、雹を全土で降らし農業を破壊する、イナゴを大発生させる、エジプト全土を暗闇にするなど、ヤハウェは魔法をエスカレートしてエジプトを苦しめる。災害をエスカレートする目的は、ファラオを苦しめて、モーゼたちのエジプト出国を認めさせることにあるはずなのだが、ファラオは災害が起きるそのつど「心を固くして」出国を認めない。


だが、ファラオがこのように「心を固くして」モーゼたちのエジプト出国を認めないのは、驚くべきことに、ファラオの意志ではない。ヤハウェが、ファラオの心に直接働きかけて、それを操作し、ファラオにそのような態度を取らせているのだ。ヤハウェは悪びれもせずに言う、「この私自らが、ファラオの心をかたくなにするので、私がエジプトの国で徴や奇蹟をくり返したとしても、ファラオはあなた(=モーセ)たちの言うことを聞かない」(7章3) 「ヤハウェは、ファラオの心を固くした。だから彼は彼らに聞かなかった」(9章12) 「ヤハウェがファラオの心を固くしたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった」(10章27) 要するに、ここでヤハウェがやっているのは、マッチ・ポンプのような自作自演であり、しかも事態をますます悪くさせて、エジプトを苦しめているのだ。この底意地の悪さは尋常ではない。


そしていよいよ最後に、ヤハウェは全エジプトの家庭の長男すべてを自ら殺害する。これがまた凄い。ヤハウェは、イスラエルの民に、羊を殺してその血を家の柱に塗るように命じる。夜中に、ヤハウェが家の前を通ったとき、血のついた家をパスして通り過ぎる目印にするためだ(これが「過ぎ越し祭」の語源)。そうでないすべての家で、ヤハウェは長男を殺害する。「エジプトに大きな叫び声が生じた。死者の出ない家がなかったからである」(12章30) あまりの悲惨さに、ファラオはモーセたちにエジプト出国を認める。今度はどういうわけか、ヤハウェはファラオの心を固くしなかった。全能の神ならば、杖の一振りでエジプト中の長男を殺せそうなものだが、ヤハウェは夜を徹してエジプトを駆け回る。

>私はその夜、エジプトの地を行きめぐり、エジプトの地ですべての長子を打ち殺す、人間から家畜まで。私はエジプトのすべての神々に裁きを行う。私はヤハウェである。血はあなたたちにとって徴となる、あなたたちがそこにいる家の上にあって。私は血を見て、あなたたちの所を通り越す。あなたたちの中に滅びは生じない、私がエジプトの地で打ち殺すときに。(12章12f.)

>それは、ヤハウェにとって、彼らをエジプトの地から導き出すための寝ずの番の夜だった。だからその夜、こんどはすべてのイスラエルの子らが代々にわたって、ヤハウェのために寝ずの番をするのである。(12章42)


人間の長子だけでなく、家畜の長子も殺すという執念には感服するが、それはともかく、「過ぎ越し祭」とは、夜を徹してエジプト中を駆け回ったヤハウェの労に報いるための祭儀なのである。過ぎ越し祭は、ユダヤ暦では新年に相当する時期らしいが、日本の正月とはずいぶん由来の趣きが違うようだ。ヤハウェという神の異常さは、ユダヤ民族が被った抑圧の強さと関係があるのかもしれない。[続く]