橋本治『あなたの苦手な彼女について』

charis2009-01-25

[読書] 橋本治『あなたの苦手な彼女について』(ちくま新書 08年12月刊)


(写真は、キャリアウーマンの草分け、清少納言[上村松園絵]。女性はすだれ越しに男性と話すのがしきたりだった。)


タイトルの「あなたの苦手な彼女」とは、現代の自立的な女性、もう少し具体的には、フェミニズムを体現しているような現代女性のこと。著者は、屈折したものの言い方をする人なので、本書は、フェミニズム批判のようでもあり、ミソジニーのつぶやきのようでもあり、批評という仮象のもとで女性にエールを送っているようでもあり、一風変わった本である。第1章が冗長なので、その先が読まれないのではないかと危惧されるが、著者は日本の古典文学に詳しい人なので、女性や結婚の在り方を長い歴史の中で相対化してみせる議論に、個性が感じられる。たとえば、清少納言はキャリアウーマンの先駆けのような人で、男性との知的な駆け引きが大好きだった。枕草子には専業主婦を罵倒した段がある。


>生い先なくまたやかに似非幸いなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、「なほさりぬべからむ人の娘などは、さしまじらはせ世の有様も見せ習はさまほしう、典侍などにてしばしもあらせばや」とこそおぼゆれ。宮仕えする人を、あはあはしうわるきことに言い思ひたる男などこそ、いとにくけれ。(21段)
(将来のない、こじんまりとした偽の幸福でいいと思っている女はバカみたいだわ。ましな身分の娘だったら、人中に出して世間の様子も見習わせたいし、典侍くらいのポジションを経験させたい。宮仕えして働く女を、浮っついたバカ女だなんて悪口いう男がいるけど、ホント憎いわ。)(p161)


キャリア志向の有能な女性に対して、男が陰でこそこそ悪口を言うのは、今に始まったことではない。なぜ男が宮仕えする女性を嫌うかといえば、それは、彼女がたくさんの男性と接するからである。清少納言は、「私は男性と口をきくのが楽しい」と、こう続ける。
>[私は]かけまくもかしこき御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位、四位はさらにも言はず、見ぬ人は少くこそあらめ。女房の從者ども、その里より來るものども、長女、御厠人、たびしかはらといふまで、いつかはそれを恥ぢかくれたりし。(21段)
著者はこれを、現代女性に当てはめて、こう意訳する。「私なんか、社長をはじめとして、重役や管理職、部課長連中と平気で口をきいてんのよ。出入りのおじさんやバイトの男の子、そこら辺の道を歩いているわけの分かんない男だって平気なのよ」(p163)


社会に出て多くの男性に伍して働きたい女性と、妻を家庭に閉じ込めておきたい男の欲望は昔から衝突していたのだ。キャリア志向の女性は結婚しにくいとも言われるが、著者は、「結婚」という形態そのものが、過去には決して一通りではなかったことを指摘する。たとえば、源義朝の妻の一人は遊女だった。彼女は「結婚前は遊女だった」のではなく、妻となってからもずっと、大きな遊女宿を経営する「自立した職業婦人」、つまりキャリアウーマンだった(155f)。現代人の感覚で「遊女」=「娼婦」と考えてはならない。「遊女」「芸者」「娼婦」はそれぞれに違い、また「正妻」といっても、愛情において第一順位の妻のことではなく、出自の家柄が妻たちの中で一番高いというだけのことだった。このように見れば、現代のキャリア女性が、仕事かそれとも結婚=育児かという二者択一に悩まされるとすれば、それは結婚を狭く考えすぎているからだろう。結婚というものは、昔からもっと柔軟なものだったはずだ、と著者は考える。


著者は、現代の結婚観についてもコメントする。自立した現代女性が結婚相手に求めるものは、結局、「この人と一緒にいるのは楽しい」という「エンターテインメント性」に尽きるという。
>「得られてしかるべきものはおおよそ手に入れた。しかし、一人は寂しい、どこか虚しい。だから結婚をしたい」と思ったとき、その人間が「結婚」に求めるものが「一緒にいて楽しいと思えるエンターテインメント性」になるのは、当然のことです。(223)


そういえば、長山靖生氏の『いっしょに暮らす』(ちくま新書)にも、今時の若い女性が結婚に求める一番重要な条件は、「結婚前にはなかったすばらしい人間関係」であると書かれていた記憶がある。このような要求は「ぜいたく」だと思う人もいるだろう(「結婚は墓場」なる格言もあったのだから)。だが、橋本治氏のユニークなところは、そのように一方的には考えないところにある。橋本氏によれば、こうした現代女性の発想は、それこそがまさに「古典的な<男のあり方>である」という。「そもそも、<得られてしかるべきものは得た。あとは結婚だけだ>というのは、古くからある男のあり方です」(226)。「いつまでもお独りだと何かとご不自由でしょう?」と、周りが心配して、彼の世話をする専用の女性を当てがってくれるのが結婚だった。その女性が、なるべく快適に自分の世話をしてくれることが、男が妻に求める「すばらしい人間関係」であった。だとしたら、経済的自立をした女性が、「次にほしいものは快適な男だな」と考えていけない理由があろうか? もちろんない。


>豊かであろうと、貧しくあろうと、「経済的自立」をとにかく達成して「個的なあり方」を確立してしまうと、結婚というものは出来にくくなる。それは「女」だけに限ったことではなく、今や「男」にも言えることです。それが、現代です。(227)
現代では、電気製品などで家事は楽になり、コンビニもあるから、男は、家事を世話してくれる女性をそれほど必要としない。これも一種の「自立」である。家事がメインの要求でなくなれば、男が妻に求めるものも「それ以上の何か」、たとえば美女であったり、賢いクールさだったり、ということになるかもしれない。当然のことながら、経済的自立を達成した女が夫に求めるものは、「エンターテインメント性」である。けっして全員ではないとしても、男女の欲望がこのような「個的なあり方をする方向に進み出す」(225)とすれば、これはたしかに時代を画する新しい段階なのかもしれない。