映画『大いなる沈黙へ』

charis2014-08-07

[映画] 『大いなる沈黙へ(原題 Die Grosse Stille)』 8月7日 岩波ホール


(写真右は、グランド・シャルトルーズ修道院、フランスのスイス国境に近い山中にある、写真下は院内の光景、修道士たちは会話を禁じられており、週一回の昼食後だけ右側のように会話を楽しむ)

大変に貴重な映画だ。カトリックのカルトジオ修道会に属するグランド・シャルトルーズ修道院は、1000年以上にわたって古い戒律を守って存続している。訪問者を中に入れることはなく、ラジオもテレビもない。私物の所有はブリキ缶一つしか許されず、神に祈ること以外は何もしないで、50年くらいを生きて死んでゆく修道士たち。この映画も監督一人が中に入ることを許され、6か月間修道士とともに生活しながら撮影した。約30人くらいの集団だろうか、質素で規則的な修道生活は、現代人の生活とはきわめて異質なものだ。


この修道院では、ミサや聖歌などで一日に三回礼拝堂に集まる以外は、一人一人別の個室(独房)で生活している(写真下)。長期間、独房に籠る修行もある。食事は廊下側に付いた小さな扉から差し入れられ、人と会うことはない(各室に配っているのが下記写真)。独房には礼拝台があり、そこで一人、祈りと瞑想に打ち込む。一日の課題のスケジュールがびっしり決まっており、個人的に好きなことに使える時間は非常に少ない。


以前、永平寺における禅僧の修行生活の記録を読んだことがあるが、良く似ている。禅僧の修行の場合、機械的な動作や所作の部分を限りなく増やすことによって、「どうしようか?」「どう行動しようか?」ということを考えることができないような状態を、あえて作り出す。座禅やそれ以外の日常生活の規則づくめの所作は、目的論的・志向的な連関に満ちている我々の通常の生活の構造を停止させ、「何もしない」「何も考えない」ことによって、嫌でも自分と、そして生の自然と向き合わざるをえないようにさせる。それによって、人間の生活の都合によって分節化していた外界が、違った相貌を見せるようになる。


シャルトルーズ修道院の生活は、永平寺ほどではないが、ほぼ同じことを指向しているように見える。祈りや瞑想の姿勢が各人まちまちで、とても自由であるところは、座禅とは大いに違って印象的だった。重要なことは、修道士同士が会話をしてはいけないという規則である。日曜日の昼食後の散歩の時間帯のみ、会話が許されている。このとき修道士たちは、実に楽しそうに、しかし静かに語り合っている。何か連絡したいことがある場合は、控えの間にある投書箱にメモを入れ、それを読むことによって意思疎通を図っている。礼拝堂でのミサや祈りの他に、一日に7回の独房での祈りが決められており、それ以外は、洗濯、皿洗い、庭仕事など各人に決められた仕事がたくさんあるので、一日のほとんどが規則的な所作の繰り返しである。睡眠も夜8時〜12時と、午前3時〜6時の二回に分けられており、その中間の午前0時〜3時は、凍えるように寒い礼拝堂での祈りに当てられる。このように繰り返しの反復が生活の基調になると、時間の経過が我々の実生活とはかなり違ったものになる。同じ独房、同じ礼拝堂における、同じ所作は、そこにつねに「現在」しか存在しない。つねに「現在」を生きる者は、「これからのこと」「未来のこと」にあれこれ悩まなくなる。


そして何より印象的なのは、修道生活がつねに「現在」であるとすれば、窓の外に広がる自然界の季節の移り行きのが、ものすごく新鮮に感じられることである。映画全体を通じて、音楽もなければ、ナレーションも、人物の語りもなく(最後の最後の修道僧の短いインタヴューを除けば)、それが3時間近く続く。しかし映像では、光と水の存在が、もうそれだけで際立って美しい。それは、そこに固有の時間があり、光と水の微妙な変化が読み取れるからだと思う。映画でもっとも感動したのは、修道士たちが雪の積もった裏山に昇り、そり遊びを楽しむシーンである。何というつつましい遊び、しかし何と楽しそうなことだろう!


とはいえ、この修道院生活には、無神論者の私には違和感を感じるところもある。まず、修道士たちは、ほとんど老人だということである。アフリカ系黒人を含む二人の若者が新たに入院してくるが、今後どうなるかは分からない。新規の入院者のうち8割は自分から辞めてゆき、残りの2割も、修道院側から「あなたはここに向かない」という理由で辞めさせられる者がかなりいるという。結局、ごく一部の者が残り、死までの時間を過ごす場所なのだ、ここは。これは人間が「生きるための場所」と言えるのだろうか。映画の最後の場面、ある老修道士は、「死は最高の喜びだ、死ぬことによって我々は神に近づくことができるからだ」と語る。永平寺のように、若者向きの1年コースの修行があり、その修了者が希望すれば、さらに長期の上級コースに進めるというのではない。私は、宗教者の修行はあってよいが、最終的には現世に戻り(あるいは交互に両方を繰り返すのでもよい)、現世での生活もし、現世で死んでゆくのが人間の健全な姿だと思うので、死への片道切符としての修道院にはやはり違和感が残る。


下記の公式HPの予告編に3分間の映像があります。
http://www.ooinaru-chinmoku.jp/