ミキエレット演出・プッチーニ「三部作」

charis2018-09-07

[オペラ] プッチーニ「三部作」  二期会  新国立劇場  9月7日


(写真右は、同内容の2012年ヨーロッパ公演『外套』、大きなコンテナの使用がとても効果的、下は同『ジャンニ・スキッキ』だが、部屋の部分に同じコンテナが使われており、終幕、蓋が閉じてコンテナに戻る、そしてその下は今回の舞台の『修道女アンジェリカ』、コンテナは修道院内のアンジェリカの独房になっている)


ちょうど100年前の1918年に、プッチーニ最後のオペラ『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』が「一緒に」上演された。だから「三部作」と呼ばれるのだが、今回のミキエレット演出は斬新で素晴らしい。二回ヨーロッパで上演されたものを今回は日本人歌手が歌う。『外套』は労働者階級が描かれたヴェリズモ(現実主義)オペラの悲劇、『修道女アンジェリカ』は宗教劇?のような悲劇、そして『ジャンニ・スキッキ』は完璧な喜劇なので、三つはまったく性格が違う。三つ合わせて約160分という手ごろな時間以外に、一緒に上演する理由は何なのか、不思議な「三部作」だが、最初の二つが後味の悪い内容なので、『ジャンニ・スキッキ』の喜劇で大いに笑わせて、観客の気分を一発逆転させる必要性がその理由ではないかと思った。この順で三つ一緒にやるのでなければ、最初の二つは何とも不快な作品だから、観られないのではなかろうか。『外套』は、妻の浮気に怒った夫が、相手の男を殺すというだけの話だが、観客は夫にも妻にも共感できない中途半端な後味の悪さが残る。ミキエレットもプログラムノートで、そこに非常に苦労したと語っている。『修道女アンジェリカ』は、音楽が際立って美しいのと対照的に、物語は非常に不快なものだ。女子修道院といっても、実態はほとんど刑務所で、「罪を犯した」という理由をでっちあげて女性を家から追放するための受け皿の場所であることがよく分かる。プッチーニの姉は女子修道院長で、彼は実際に取材したというが、この作品でプッチーニは何を表現したかったのだろうか、それが理解できない。もっとも今回のミキエレット演出では、アンジェリカの子供が死んだというのは公爵夫人の嘘だということに改作されているが、これが不快さを一層増しているのかもしれない。

ミキエレット演出の凄いところは、三つの作品をアクロバティックに結びつけた点にある。上記写真↑は私が一番驚いた箇所で、『外套』の終幕がそのまま『アンジェリカ』の冒頭になっている。幕も降ろさず、観客の拍手とともにライトがちょっと消えただけで、『外套』の妻のジョルジェッタがそのままアンジェリカになっており、髪を切ってもらって修道女になるシーン(服はジョルジェッタのまま)。こんなことができるのだ! ミキエレットによれば、三つの作品に共通するのは、「死」と「暴力」だという。『外套』と『修道女アンジェリカ』では、たしかにジョルジェッタもアンジェリカも「幼い子供が死んでしまった母」という点が共通するし、『ジャンニ・スキッキ』でも大資産家ブオーゾが冒頭で死んでいる。暴力は二つの作品に共通するが(修道院では、修道女たちが監視人になぐられる)、『ジャンニ・スキッキ』にはちょっと繋がらないように思う。しかし三作を通じて、コンテナがほぼ同じに配置されているのは凄い。『外套』では、船の中で労働者たちが作業する場として、『アンジェリカ』では修道女の独房として、『ジャンニ・スキッキ』では強欲な親戚たちが閉じ込められて追放される小部屋=容器として。