ケラ・サンドロヴィッチ『修道女たち』

charis2018-10-20

[演劇] ケラ・サンドロヴィッチ『修道女たち』 下北沢、本多劇場 10月20日


(写真右と下は、舞台、6人の修道女と一人の知恵遅れの村娘)

2006年に観たケラの『労働者M』は、カフカ的な寓話をナンセンス劇仕立てにしたもので、物語を作る構想力に感心した覚えがある。この『修道女たち』も似たところがあり、どこかズレたところのある修道女たちが、いつもすれ違ってしまう滑稽な日常が生き生きと描かれている。修道女たちは、みなどこか頭が固くて融通の利かない人たちなのだが、それぞれに個性豊かで、出自も性格も違う一人一人の人物造形がとてもいい。彼女たちの少しぶっ飛んだところが、シュールに描かれている。そして知恵遅れの少女と、ちょっとずっこけた青年との恋もからむ。最後は国王の宗教迫害によって修道女たちは全員殺されてしまうので、真正の悲劇なのだが、ナンセンスと不条理に溢れており、一人一人の人物を作者が愛情を込めて造形しているのがいい。知恵遅れの少女オーネジー(鈴木杏)と若いシスター・ニンニ(緒川たまき)の友情が美しく(写真下↓)、最近修道女になったばかりの母娘は、どちらも困ったちゃんで、母は男を誘惑するし、キャピキャピした娘は「私、神なんか信じてないわよ」と言ってはばからない(写真その下↓)。


修道女たちは出自がさまざまで、しかも修道院に入る理由も異なっているようなところが面白い。修道女になったばかりの母は、大富豪の未亡人らしく、ほぼ無収入のこの修道院は彼女の献金で成り立っているので、彼女は叱られたときなど、次に払う大金を仄めかして取引する。彼女は二年ごとに違う新しい宗教にハマって、宗旨替えする人なのだ。だから彼女はときどき「祈り間違える」、つまり前の神さまに祈ってしまう。全体に物語は非常によく出来ているのだが、基本は不条理劇なので、観終わった後、悲劇にふさわしいカタルシスはあるのだけれど、それ以外にどこか後味の悪さが残る。戦場で同僚たちを殺害して帰還した兵士テオや、最後の最後、毒入りのぶどう酒を飲んで修道女もオーネジーも死んでしまうところは、これでよいのだろうか? 「魂の列車」に乗って天国に出発するのが終幕だからカタルシスはあるのだが、毒入りぶどう酒を作ったのが、宗教弾圧する国王ではなく、村人たちであるところが釈然としない。ベルナノスそしてプーランクの『カルメル会修道女の対話』では、修道女たちの殉教は、フランス革命による宗教弾圧の犠牲者として大義あるものだが、本作の場合、彼女たちの死の大義がよく分からない。2年前の「聖・船出祭」で47人の修道女が、国王の陰謀により毒入りぶどう酒を飲まされ、43人が死に、4人が生き残った。残った4人が、自分たちだけが生き残ったことに対して贖罪感を抱いていることは分かる。しかし、今回、毒入りパンでネズミがたくさん死んだのに、村人たちの善意に賭けて、結果として毒入りだったぶどう酒を飲むという選択は、キリスト者の行為として、正しかったのか? 村人たちは国王から、修道女たちを殺さなければ村を焼き払うと恫喝されていたことは承知なのだから。彼女たちは、荷造りを終えて、逃げるところだった。だから、そのまま村から逃げるという生の選択こそ正しいのに、と私は思った。彼女たちは、生きて生きて生きぬいて伝道に励むべきではないのか。それが47人の中の4人が生き残ったことの意味である。それをみずから無にしてしまうなんて! 最後、シスター・ノイ(犬山イヌコ)の提案でぶどう酒を飲むところの教理問答は、戯曲を見ないと正確には分からないのだが、キリスト教の立場からすればおかしいのではないか? これでは彼女たちは無駄死になってしまう。それを見るのはとても辛い。彼女たちの殉教が不条理劇に回収されたという一点に、後味の悪さが残る。