R.ブレッソン『やさしい女』

charis2015-04-24

[映画] ロベール・ブレッソン『やさしい女』  新宿・武蔵野館  2015.4.24

(写真はすべて、主演のドミニク・サンダ)


この映画は、ドストエフスキー後期の短編小説(1876)をもとに、1969年、ロベール・ブレッソンが映画化したもの。モデルであった20歳のドミニク・サンダを、初めて映画に起用し、結果として彼女の女優デビュー作となった。可愛い少女役なのだが、射るような、激しく拒絶するような視線、決して笑わないその顔は、途方もなく美しいのに、遠い世界からこちらを見ているようなその冷たさに、慄然としてしまう。


原作のドストエフスキーの小説は、あまりにも辛い。41歳の質屋の男が16歳の薄幸の少女と結婚するのだが、両者はまったく相手を理解することができず、妻は自殺してしまう。愛の不可能性を描いた作品だが、実は、ドストエフスキーの最初の妻で38歳で病死したマリア・ドミートリエヴナと、ドストエフスキー自身との結婚生活がモデルになっている。彼はマリアの死後、彼女との結婚生活について手紙でこう書いている。「二人は一緒にいるとほんとうに不幸だった、にもかかわらず、二人は互いに愛することをやめることができなかったのだ、いや、不幸になればなるほど、ますますわたしたちは強く結びついたのだ、どんなに奇妙なことであれ、まさにそうだったのだ」(1865.3.31付書簡、講談社文芸文庫『やさしい女』の、山城むつみ氏の解説より)。だが、ドストエフスキー自身は心底からそのように思っていたかもしれないが、死んだ妻のマリアもそう思っていたかどうかは分からない。あるいは、ドストエフスキーの独りよがりの思い込みかもしれず、そして、『やさしい女』に描かれた妻にも明らかに独りよがりなところがあり、これこそが真の主題ではないだろうか。ドストエフスキーの初期作品『白夜』では、主人公の「僕」も、恋した相手のナースチェンカも、ともに「夢想家」であったが、それとどこか似ている。狂おしいまでに相手を愛さずにはいられない人間の、というか、愛そうと必死になる人間の、その愛が空転して実現しないこと、相手が悪いのではなく、愛そうともがく自分自身に躓いてしまうこと、それをとことん描いたことがドストエフスキー作品の魅力であるとすれば、『やさしい女』はまさにドストエフスキー的な作品なのだと思う。


この作品でもっとも衝撃的なのは、寝ている自分に妻がピストルを向けるシーンではない。「お前はどうして、そんなに愛を必要とするのか」と夫に問いかける、妻の無言の視線である。浮気が夫にばれてベッドを別にするようになった妻は、夫と距離を取れる生活に一息つく。二人が距離を取れるならば、何とかやっていけるのだ。だが、夫は、妻を愛さなければと、憑かれたように愛そうとする。それに対して、妻は泣きながら言う。「わたしはあなたがこのままにしておいてくれると思っていました」。その妻の視線に、夫は、「ではおまえにはまだ愛が要るのか? 愛が?」という問いかけを感じて絶望する。(『やさしい女』p77〜79)


ドストエフスキーの原作は、語り手である「私」の、切羽詰っているのに冗長で内省的な独白に終始するので、これが映画になるとは信じられない。それをブレッソンは映画にしたのである。場面を19世紀のペテルブルグから、60年代のパリに移したブレッソンの映像は、どこまでも端正で美しい。余計な要素をすべてカットし、科白もきわめて少なく、人の顔を中心とした映像だけで映画を構成するブレッソンの魅力が、全編に溢れている。だが、ドストエフスキーの原作を知らない人には、「やさしい女」の「やさしさ」がどこにあるのかが分からないのではないだろうか。この映画だけを見る人は、「なぞの女」「冷たい女」「共感を拒む女」を見てしまうのではないか。結婚によって苦境から救済してくれた男性を、何とか愛そうとする妻なのだが、彼女を苦境から救済するというという原作の重要な背景が、ブレッソンではすべてカットされているからだ。ブレッソン版『やさしい女』は、彼の最高傑作の一つである『少女ムシェット』とも似ている。どちらも、少女が自殺してあっけなく死んでしまう物語だが、ギリシア悲劇のアンチゴネや『リア王』のコーディリアのように、そこには、少女の死による世界の救済という神話的色彩がある。彼の『ジャンヌダルク裁判』もそうだが、ブレッソン映画は、どこまでも端正な映像で、美しい少女がほとんど無言のまま死んでゆくのを淡々と描き出す。彼女たちは、アンチゴネやコーディリアがそうであったように、どこか寂しげな表情をたたえて、一度も笑わないが、泣き叫ぶこともない。職業俳優を使わずに素人を起用するのも、科白ではなく映像のみで表現しようとするからだ。ブレッソン映画の俳優には、演技は基本的に不要で、俳優というよりはモデルなのである。『やさしい女』のドミニク・サンダは、これ以上は考えられないほど適切なキャラクターの起用である。だが、ドストエフスキーのあの饒舌な内省的告白の文体でこそうまく表現できた人間の姿、愛そうともがく自分自身に躓く人間の姿を、限りなく美しい端正な映像のみによって表現することは、かなり困難なことではないだろうか。


You Tubeに予告編動画があります。ブレッソンの映像の美しさ、ドミニク・サンダのすべてを拒絶するその視線の強さ。
https://www.youtube.com/watch?v=Ram8D5l4HEA