マーク・ロスコの絵(川村記念美術館)

charis2015-04-19

[美術館] マーク・ロスコの壁画  川村記念美術館  2015.4.19


(写真右は、ロスコの壁画の一つ、下は、美術館のロスコ・ルーム、実際は照明を落としてずっと暗い)

千葉県佐倉市川村記念美術館に行きました。マーク・ロスコ修士論文を書いたばかりのTさんに案内していただきました。ロスコの実物を見るのは初めてですが、とてもすばらしいものでした。以下に感想を。


ロスコの絵の前に立つと、自分が「神殿」の中にいるような不思議な気持ちになる。270cm×400cm程度という大きさが重要で、その中に包み込まれるというか、引き込まれるような感じがする。画集で見たのでは、そうはならない。絵あるいは壁画というよりは、壁そのものという感じだ。この不思議な感じはどこから来るのかを考えてみると、「素材としての色」が持っている生命感というか、壁が呼吸しているような感じにあると思う。しばらく見ていると、枠や柱のような「図」と感じられていた部分が、いつのまにか「地」に変り、それ以外の部分が手前に浮かび上がって「図」になっている。このような地と図の反転が、静かに、そして繰り返し起こる。

柱とそれ以外の部分が、茶色/ワイン・レッド、黒灰色/こげ茶色、こげ茶色/赤茶色など、ある程度似たような色であることも関係しているだろう。もしこれが、窓枠の向こうに見える青空のような対照的な色ならば、構図は安定しており、地と図は反転しないからだ。また、これらの「柱」の輪郭は、シャープな直線で描かれているわけではなく、少しぎざぎざで、ささくれ立っており、光が向こう側にあるというか、小さな多数の炎のように見えることさえある。そして、柱もそれ以外の部分も、それぞれ同じ色で描かれているように見えるが、よく見ると、濃淡やムラがあって、暗く光っている。それらは「模様」というほど明確な形を持ってはおらず、さまざまな「影」のようでもあり、混沌の中から「形」が姿を現そうとするかのように、かすかに呼吸しているように、感じられる。硬質な物質性ではあるが、どこか生命的なのである。


私は、アリストテレスの、「可能態」としての「質料」の話を思い出した。色はそれ自体では「質料」であるが、それが一定の姿の「形」を取ると(=「形相」)、たとえば「柱」「壁」「机」などの「物」という「現実態」として現れる。色は、それ自体は「拡がりの力」であり、さまざまな形になりうる「可能態」である。そして、「色」は質料であるから、それは同時に「光」でもある。デカルトは「形」を「第一性質」として物理的で根源的なものと捉え、それに対して、「色」は「第二性質」として派性的なものと考えた。しかし、我々の経験はそうなっていない。ものが「形」を持つのは「色」が異なるからであり、色の差異によって(影も含む)、はじめて「形」が認知できる。色の方が形よりも根源的なのだ。そして、色の広がりは、その奥を見えなくしており、つまり、我々の視界をそこで断ち切って、視線をこちらに押し戻す力を持っている。「透明な」ガラスとは異なる、質料としての色の力である。


ロスコでは「茶色」が基本色だが、茶は、→こげ茶→黒の方向へ変わる可能性もあり、→赤茶→赤、あるいは、→オレンジ色→黄の方向へ変わることもできる、さまざまな可能性をもつ「可能態」である。アリストテレスでは、たしか「炎」も「質料」であり「可能態」だったように思う。炎は明確な輪郭を持たず、たえず形が変っているからだ。水や空気も、特定の形を持たず、どんな形にでもなりうる「可能態」である。ロスコの壁画もまた、「質料から出来ている神殿」のように思われる。その前に立つと、「自分がここに居る」という不思議な感慨を覚える。ロスコ自身は、「多くの人が、私の絵を前にして崩れ落ちて泣くという事実は、・・・絵を描くときに私が持っていたのと同じ宗教的体験をしているからです」と語った。さすがに、このロスコ・ルームで泣いている人は誰もいなかったが、私のように「神殿にいる自分」を感じた人は多いのではないか。カントは、夜の「星ちりばめる大空」を「崇高」な無限なるものと感じ、その下に立つ「私」の有限性に慄然とした。デカルトは、すべての内容を剥奪された「我思う」という透明な意識が、「広がりあるもの」としての純粋な物質=延長性と対峙していると考えた。ロスコの絵に「官能性」を感じる人も多いという。私自身が感じたのは、「官能性」とはちょっと違うが、硬質な物質性の中に現れる生命的なものへの驚きかもしれない。ロスコには、通常の絵のような「形」は存在しない。しかし、形相に対する質料の優位のようなものが、たしかに、不思議な仕方で、「我、ここにあり」を感じさせた。