[映画]  ケイコ 目を澄ませて

[映画]  ケイコ 目を澄ませて 田端・Cinema Chupki  4月3日

(写真↓はケイコ[岸井ゆきの]とジムの会長[三浦友和])

見ながら、私は、ロベール・ブレッソンの映画を思い出した。人間が真剣に生きている姿は、ただそれだけで、何と美しいのだろう! 映画という媒体は、それを表現するためにあるのだ。本作は、ブレッソンと同様に、画面に流れる音楽がまったくない(ケイコの弟がギターを弾くほんの僅かの場面を除いて)。人の語るセリフも非常に少ない。その代わりに、電車の走る音、車の騒音などの生活音、そしてボクシングの練習をするケイコの足音、息遣い、パンチの音などが溢れている。そして、これが肝心なことだが、これらの音はケイコにはまったく聞こえていないのだ。映画を見ている我々観客は耳の聞こえる聴者だから、このギャップが我々の想像力を刺激する。ケイコの内面に入ろうと想像力が羽ばたき、ケイコにとってはどんな世界が広がっているのだろうかと想像力が掻き立てられる。それでもやはり、ケイコが何を考えているのかはほとんど分からない。映画の最初から最後まで、彼女は少しボーっとした表情のままで、あまり喜怒哀楽も表さない。彼女はいつも淡々としている。それなのに、手話するときの彼女の顔は、荒川土手を走り、下町の汚い木造アパートの路地を歩く彼女の姿は、何と美しいのだろう! おそらくこれは、カントが『判断力批判』で述べた、崇高としての美、無限性の前で想像力が挫折することによって生まれる美なのだろう。ブレッソンや小津の映画と同じことが起きているのだ。本作は、本当に、映画という表現媒体に可能な極限に挑戦している。『天井桟敷の人々』のバティストのように、通常の言葉によるコミュニケーションができない状態こそ、その人間の個性がもっとも鮮明に現れる。映画『ドライブ・マイ・カー』でも、手話で語り合う韓国人の若い夫婦が、このうえなく魅力的で美しかったが、聴覚障碍者を主人公にしたことは、映画の本質に触れる何かがあって、映画というのはたぶん、言葉なしに、人間の美しさを捉えることができるのだろう。聴覚障碍者が手話で対話するとき、その表情には輝きがある(↓)。 言葉によって他者と理解し合えることは、それ自体が恩寵のようなものなのに、口と耳が達者な我々「健常者」の方が、かえってその喜びから疎外されているとしたら、何と皮肉なことだろう。本作は、障碍をたんにネガティブなものではなくポジティブな<個性>として描いているという点でも、貴重な映像作品といえる。

「目を澄ませて」という副題も、ケイコは「目がいい」ということをただ言っているだけでなく、我々に「もっと目を澄ませて、世界をよく見よう、ケイコのように!」と呼びかけているのだ。たしかにケイコが人や物をジーっと見る視線は、それだけでとても印象的だ。そして、コロナ禍なので、マスクをした人々が目でコミュニケーションしているのも、本作の隠れた副題だと思う。そして、障碍を「個性」としてポジティブに捉えようという重い課題に本作は向き合っている。ケイコだけでなく、本作は、男性の登場人物が凄くいい。人間という存在は、真剣に生きようとするとき、何と美しいのだろう! 本作は、映画というものに我々が求めているものを、最大限に直球で与えてくれている。(短い動画も↓)

映画『ケイコ 目を澄ませて』公式サイト (happinet-phantom.com)

ケイコを含む手話シーンなど

岸井ゆきの主演、映画『ケイコ 目を澄ませて』リングを降りたボクサー・ケイコの等身大の日常シーン(本編映像)【2022年12月16日公開】 - YouTube

岸井ゆきののボクシング練習風景の映像も。

『ケイコ 目を澄ませて』岸井ゆきのトレーニング映像を解禁! - YouTube

ケイコが会長とシャドーボクシングをするシーン、撮影スタッフたちの目が素晴らしい

『ケイコ 目を澄ませて』メイキング映像 ケイコと会長のシャドーシーン - YouTube