[今日のうた] 4月1日〜30日
(写真は米川千嘉子1959〜、馬場あき子に師事、歌誌「かりん」編集委員、毎日歌壇選者、思索的で深みのある歌を詠む人、夫は歌人の坂井修一)
・ さくら花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに
(在原業平『古今集』、「桜の花よ、あたりが暗くなるまで激しく散っておくれ、老いがやってくるという道を花びらで埋め尽くし、それが分からなくなるまで」、桜は若さの象徴なのか、明日は小町の歌を) 4.1
・ 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
(小野小町『古今集』「長雨が降って、あまり見る人もないままに、桜の花の色は変わってしまった、それをぼんやりと眺めていた私の容貌もこんなふうに衰えてゆくのね、でも生きていくわ、私」、「ふる」は「降る」「古る」「経る」の三重の掛詞で、「世に経る」には「世俗に生き続ける」の意もある) 4.2
・ 花の雲鐘は上野か浅草か
(芭蕉1687、「僕の深川の草庵から眺めると、あちこちに桜が咲き誇って、まるで雲のようだなぁ、あの鐘の音は上野の寛永寺だろうか、それとも浅草の浅草寺(せんそうじ)だろうか」) 4.3
・ 昔よりいく情(なさ)けをか映しみるいつもの空にいつも澄む月
(永福門院1297、「月よ、太古の昔から、なんと多くの人があなたに向かって祈ったことでしょう、あなたは澄み切った姿で、いつもそれを優しく受け止めた、今夜もまたあなたは澄み切っています」、今日は満月でしかも月食) 4.4
・ はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば花にもの思ふ春ぞへにける
(式子内親王『新古今』、「今年もまた花を見てはぼんやりともの思いにふけっている私だけど、毎年こんなふうにして私の春(=青春時代)は過ぎ去ってしまったのね、恋が実ることもないままに」) 4.5
・ 菜の花や月は東に日は西に
(蕪村1774、蕪村の代表作の一つだが、近景の菜の花に、遠景の月と太陽を、二つとも配した雄大な構図) 4.6
・ この庭の遅日(ちじつ)の石のいつまでも
(高濱虚子1927、龍安寺の石庭で、「日が長くなって、明るい夕陽が石に当たっている、まるで、時間が止まってしまい、いつまでもこの状態が続いているかのように」) 4.7
・ 乳房や ああ身をそらす 春の虹
(富澤赤黄男(かきお)1952、作者1902〜62は現代詩のような俳句を作った人、関係がなさそうでありそうな、幾つもの言葉の連鎖からなる面白い取り合わせ) 4.8
・ 二日酔いのまなこ閉じても開きても人満ちている早稲田大学
(佐佐木幸綱1989、作者は歌人にして早大教授、早稲田のキャンパスはいつ行っても人で一杯、新学期も始まった) 4.9
・ 何か、かう、書いてみたくなりて、/ ペンを取りぬ―― / 花活(はないけ)の花あたらしき朝
(石川啄木『悲しき玩具』、いかにも啄木らしい上の句、よく呼応する美しい下の句、この歌の前後には貧乏に苦しむ歌も多いのだが) 4.10
・ ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて
(岡井隆『鵞卵亭』1975、九州の海辺近くに住む作者、潮騒の音が聞こえる書斎の窓には春の光が溢れている、「ああ、ホメロスが読みたいなぁ!」) 4.11
・ 手にとるなやはり野におけ蓮華草(れんげそう)
(瀧瓢水1684〜1762、作者は江戸中期の俳人、レンゲソウは可憐な花をつける野草だが、この句は、遊女を身受けしようとした友人を諌めた句と言われる、いったん詠まれてしまえば、俳句は、作者の意図とは違ったコンテクストで読まれうる) 4.12
・ 懐(ふところ)へ入らんとしたる小てふ哉
(小林一茶1804、小さい蝶がどういうわけか胸の寸前まで飛んできた、「いいとも、懐にお入り」と優しく迎える) 4.13
・ 愛ん家(ち)で見たエロ本と脱衣所の無い風呂たぶん愛は美しい
(モ花・女・28歳、『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「子供の目に映った他人の家の不思議さ」と穂村弘選評、「愛は小学校の同級生で、めちゃくちゃにいじめられてました。何をされても微笑んでいて、泣く事はありませんでした」と作者コメント) 4.14
・ 新宿の人人人人人の中こっそり入がまぎれこんでる
(木下ルミナ侑介・男・26歳、『ダ・ヴィンチ』短歌投稿欄、穂村弘選評「作中の<私>がその<入>なのかもしれない。いや、<人人人人人>の全員が主観的には自分は<入>だと感じているのかもしれない」) 4.15
・ 優しさが怖いタンポポのサラダ
(松本照子、たんぽぽは花も葉も食べられるのだが、初めての人には、かわいい花を食べるのがちょっと「怖い」のか) 4.16
・ 美しき春潮の航一時間
(高野素十『野花集』1953、「春潮(しゅんちょう)」「春の潮」は春の海水のこと、「春になると海水の色が微妙に変わってくる、一時間ほどの、美しい海の船旅」、漢字中心で漢詩のような風格もある、草田男の雄大な「秋の航一大紺円盤の中」に対して、こちらは優美) 4.17
・ 春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は
(紀貫之『家集』、「春と秋ではどっちがいい季節でしょうかって聞かれたけど、困っちゃうな、春には春はいいなと思い、秋にはやっぱり秋はいいなと思うんだよ、思いが乱れてとても決められないよ」) 4.18
・ 一人行くことこそ憂けれ古里(ふるさと)の奈良の並べて見し人もなみ
(伊勢『後撰和歌集』、まだ若い伊勢が母死去の報を受け、故郷に戻るときの歌、彼女は失恋の直後だった、「彼とのことを心配してくれたお母さんのところに、一人で行くなんて辛いわ、私と一緒に並んで奈良の都を歩き回ったお母さん、あなたはもういらっしゃらないのね」) 4.19
・ 流れての名をさへ忍ぶ思ひ川逢(あ)はでも消えね瀬々(せぜ)の泡沫(うたかた)
(俊成卿女『新勅撰和歌集』、「貴方って、この頃ちっとも来てくれないのね、「思い川」のように深く忍んで貴方を愛しているけど、いずれは浮名が立って人に知られてしまうかしら、それならいっそ、もう貴方とは逢わないままに私は死んでいこうかな、「思い川」に浮かぶ泡沫のように」、作者62歳の歌、流れるような調べが美しい) 4.20
・ 春昼(しゅんちう)の電話たれにも繋がらず
(正木ゆう子『水晶体』1986、「春の昼間、どういうわけか、電話をかけた相手は誰も家にいない、急ぎの用事じゃないけどね」、まだ固定電話だった頃の話、携帯にいやでも繋がってしまう今と違って、のどかだった) 4.21
・ 夜のぶらんこ都がひとつ足の下
(土肥あき子2005.2.12「読売新聞」、「ぶらんこ」は春の季語、小高いところにある公園で、夜、女性が一人ブランコを大きく漕いでいるのか、大東京の夜景を「足の下に」一望しながら) 4.22
・ 手づくりのいちごよ君にふくませむわがさす紅(べに)の色に似たれば
(山川登美子1905、作者は、晶子とともに歌の師である与謝野鉄幹を恋した人、この「君」は鉄幹だろうか、「自分が大切に育てたイチゴよ、私だと思って貴方に食べてほしいわ」と) 4.23
・ ええそうよそうそうそうよそうなのよ炭素のような祈りの美学
(東直子『春原さんのリコーダー』1996、ガールズトークのような上の句、誰かと電話で話しているのだろうか、相手が「イエス」と言ってくれるのを、ただ祈るような気持ちで待っているのか、でも、なぜ「炭素のよう」なのだろう) 4.24
・ 遠足の列石段に余りけり
(田中越汀子「朝日俳壇」1988、稲畑汀子選、「おや、子供たちが遠足かな、いるいる、石段から溢れるようにたくさんいるよ」、「遠足」は春の季語) 4.25
・ 摩天楼より新緑がパセリほど
(鷹羽狩行1969、エンパイア・ステート・ビルからセントラルパークを見おろしている作者、だが今では、高層ビルが林立する東京にも似たような光景が、建物で埋め尽くされている大東京、でも所々に「パセリのように見える」新緑が美しい) 4.26
・ 雨上りゆく牡丹(ぼうたん)の立ち直り
(稲畑汀子、牡丹の花は大きく美しい、それだけに雨を花全体で受けてしまう、今、その雨も上がって、牡丹の花は、水を地上にこぼしながら、立ち直っている) 4.27
・ 水晶の念珠に映る若葉かな
(川端茅舎、寺の光景だろうか、僧の手にある水晶の数珠に、庭の若葉の緑が映って、きらりと光る) 4.28
・ スカーフに風からませてどこへでも行けると思う今ならば でも
(江戸雪『百合オイル』1997、二人の恋に微妙な影が差してきたのだろうか、「今ならば」と「でも」が複雑な心情を伝える) 4.29
・ 嘘などもまぜて大いに告げてゐるほんたうのわれ君しらぬわれ
(米川千嘉子1988、新婚の妻となった作者、幸福な夫婦なのだが、結婚によって自分を失ったりはしない、この醒めた感じのユーモアが彼女の持ち味、「大いに告げてゐる」がいい、夫も歌人だからこの歌もすぐ知られる) 4.30