ヤナーチェク『イェヌーファ』

charis2016-03-05

[オペラ] ヤナーチェク『イェヌーファ』 新国立劇場 2016.3.5


(写真右はポスター、下はイェヌーファとコステルニチカ、そして他の登場人物たち)

めったに上演されない作品で(日本ではこの40年間でこれが5回目)、もちろん私は初見。だが、深く感動した。涙が溢れて、止まらない。音楽も素晴らしいが、何よりも物語が優れているからだろう。ヴェルディリゴレット』、プーランクカルメル会修道女の対話』、コルンゴルト『死の都』などと共通するタイプの作品かもしれない。これらが「愛の喪失」「愛の喪失と救い」の物語だとすれば、『イェヌーファ』は「愛の喪失と再生・浄化」の物語だ。「なぜ我々は、愛を失うことにこれほどまでに苦しまなければならないのか?」 これは『アンティゴネ』『リア王』『ガラスの動物園』そしてチャペック『ロボット』など、演劇の最高のテーマだが、オペラでもやはりそうなのだと思う。


原作はチェコの女性作家ガブリエラ・プライソヴァー(1862〜1946)の戯曲『あの女(ひと)の育てた娘』で、ヤナーチェクがオペラ化したのが1903年チェコの寒村で、村一番の器量よしの娘イェヌーファは恋人のシュテヴァの子を宿すが、彼女を恋しているもう一人の男ラツァに頬をナイフで切られたために、シュテヴァは彼女を捨てて去ってしまう。イェヌーファの育ての親である継母コステルニチカ(=「教会の用務員」という意味)は、イェヌーファを可愛がるあまり、半年間も彼女を隔離・監禁して、その妊娠・出産を誰にも気づかれないように隠す。そして、ラツァと結婚させるために、生まれたばかりの赤ん坊を、ちょっとした行き違いから凍った川に捨てて殺してしまう。そして、春になって結婚式の予定日、氷の解けた川から赤ん坊の死体が発見され、犯行を告白したコステルニチカは逮捕される。絶望したイェヌーファだが、ラツァからの一途な愛に応えて、結婚を決意する↓。二人だけで、壁に向かって手をつなぐだけのささやかな結婚の儀。赦しと和解による愛の再生で終幕。

演出のクリストフ・ロイによれば(プログラム・ノート)、継母コステルニチカは、放蕩な夫によって裏切られた自らの結婚生活の裏返しとして、誰よりも深く愛を渇望しているのだが、自分でそれに気づいていない。生真面で厳格な性格ゆえに、自分にも他者にも厳しくなるが、無意識の一番底にあるのは、イェヌーファへの盲目的な愛である。半年間も監禁されたのに、継母コステルニチカを恨まない「ストックホルム症候群」のイェヌーファは、母から自由になれない。彼女は、コステルニチカの犯行告白によって、打撃を受け、人生の最大の試練に直面するが、それを転生の契機として、初めて自らが愛の主体に生成する。


この作品の最大のポイントは、コステルニチカが自分で自分の欲望を分っていないことにある。「私は自分のことしか考えていなかったんだ、お前だけは許しておくれ!」、犯行を告白した直後、彼女はこのようにイェヌーファに向かって叫ぶ。本作でもっとも胸が痛む科白だが、これは本当ではない。「世間体を取り繕って、自分も傷つきたくないというエゴイズムから」というのは、表層の理屈づけであり、彼女を赤ん坊殺しに駆り立てた本当の動因は、盲目的なイェヌーファヘの愛である。「耐えられなかったんです、二人の人生を失うことが」という彼女の科白はエゴイズムではない。どこかリゴレットに似ているではないか。


音楽は、第二幕のイェヌーファとコステルニチカのアリアとデュエットが本当に素晴らしい。魂を掻きむしるような美しさ。そして、終幕、音楽にハープが加わり、赦しと愛の再生に、我々もまた浄化される。コステルニチカ役のジェニファー・ラーモア、イェヌーファ役のミヒャエラ・カウネは、本当に渾身の歌唱で、素晴らしいの一語に尽きる。


下記に5分ほどの動画があります。2〜3分のところの赤ん坊を棄てるコステルニチカ、終幕の感動的な二人だけの結婚シーンが見られます。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/jenufa/movie/