プッチーニ 『トゥーランドット』

[オペラ] プッチーニトゥーランドット』  新国立劇場 7月21日

(写真は舞台空間↓、専制政治に抑圧された民衆が一番下にいる「逆ピラミッド」構造、上がトゥーランドット姫、下が求婚者カラフ)

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1924年作の『トゥーランドット』は、第3幕の途中まで書いたプッチーニが死んだので、残りを弟子のアルファーノが作曲し、それをトスカニーニが修正したものが上演され、今回もそれによっている。しかし最後に、トゥーランドット姫が愛に目覚めてカラフと幸せな結婚をするというのは筋としてやや不自然なので、この上演は、演出のアレックス・オリエの解釈で、最後の最後、トゥーランドット姫は自分の首に刃を当てて自害するという終幕になっている。私はこれでよいのだと思う。本作の真の主人公は、女奴隷のリューであり、彼女以外には誰も登場人物に共感できないからだ(カーテンコールの拍手はリューが最高)。トゥーランドット姫という人間には最初から最後まで、いいとところは一つもない。2018年1月にトリノで上演された版は、フィナーレを中国のハオ・ウェイが作曲し、リューをヒロインにして、プッチーニの絶筆部分で完結するようにしたそうだが(プログラムノートによる)、これがたぶん一番よいのではないか。写真下↓は、終幕、トゥーランドットと対決するリューと、自害したリュー。

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 『トゥーランドット』は真正の悲劇作品だと思う。指揮者の大野和士によれば、プッチーニは『サロメ』(1905)、『エレクトラ』(1909)、『月に憑かれたピエロ』(1912)などを知っており、第一次大戦での大量虐殺にショックを受けて、本作を書いたという。殺戮シーンは無調性によっている。つまり、『トゥーランドット』は現代音楽なのであり、19世紀的な「愛のオペラ」とは大きく異なっている。私は、権力関係の只中で愛が引き裂かれるという主題において、シェイクスピアの『リア王』との類似性を感じた。「愛を受け入れることができない」リアと「人を愛することしかできない」コーディリアに対応するのが、それぞれトゥーランドットとリューである。コーディリアは、自分が死ぬことによって他者に愛を贈与する。リューもまったく同じで、拷問にかけられたリューは、トゥーランドットに向って次のように歌う。(トゥ)「誰があなたの心にそんな力を与えるの?」、(リュ)「お姫様、愛なのです!」、(トゥ) 「愛ですって?」、(リュ)「私は、あなたに愛という贈りものをさしあげます。そして私はすべてを失う。しかし私の愛は、至高の贈りものになるでしょう」。こう歌って、拷問にかけられたリューは、自害する。彼女は、コーディリアがリアに愛を贈与して死んだように、トゥーランドットとカラフに愛を贈与して、自らは死ぬ。つまり彼女は「愛のアレゴリー」なのだ。しかし、そうであったとしても、「他者の愛を受け入れることのできない、氷の心をもった」トゥーランドットが、そこでただちに愛に目覚めて、カラフと幸せな結婚をするというハッピーエンドは、やはり不自然すぎる。このオリエ演出のように、トゥーランドットは一応はカラフの愛を受け入れるが、やはり責任を感じてただちに自殺し、彼女の魂はリューとともに救済されるという終結が一番よい。オケは、大野が率いるバルセロナ交響楽団なので、音の響きが厚く豊かで、とてもよかった。写真下は↓、三人の大臣「ピン、ポン、パン」と舞台。

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