イプセン『ヘッダ・ガブラー』

charis2016-12-11

[演劇] イプセン『ヘッダ・ガブラー』マジャール劇場公演 12月11日シアタートラム


(写真右は、ブラック判事と主人公ヘッダ、写真下はヘッダと夫のテスマン、そしてヘッダの元カレであるレェーヴボルグとその恋人テア、テアはヘッダの学校の後輩、テスマン以外はキルケゴールの言う「美的生き方」を実践する人々である)


ルーマニアクルージュ・ナポカ・マジャール劇場(Teatrul Maghier de Stat Cluj)の公演を観た。素晴らしい舞台。前に見たラドゥ・スタンカ劇場の『ルル』も良かったが、ルーマニアには優れた劇団が多いのだろう。『ヘッダ・ガブラー』を観るのは初めてだが、戯曲を読んでもさっぱり分からなかったのが、舞台を観て、こんなに面白い劇だったのかと感嘆した。演出はアンドレイ・シェルバンだが、全体を軽快な喜劇調にしたのが正解。最近見た熊林弘高の『かもめ』とも演出コンセプトが似ている。イプセンはリアリズムで演出してはダメだめなのだ。『ヘッダ・ガブラー』は、キルケゴールの『あれか、これか』の世界そのものである。イプセンキルケゴールをモデルにした詩を書いたほどだから、よく読んでいたのだろう。キルケゴールは「美的生き方(=恋愛重視派)」と「倫理的生き方(=結婚重視派)」を対立させ、なおかつ、両者のどちらかを人間は選べるという「根源的選択」(=「あれか、これか」)が可能であるとした。(写真はヘッダの居間↓、彼女が次々にかけるレコードから、軽快でコミカルな曲が流れ、一同軽く踊りながら歌う)

ヘッダは結婚したばかりだが、結婚に後悔している。新婚旅行はとても退屈だった。夫のテスマンは歴史学者で自分の学問にしか興味がなく、古文書ばかり読んでいるので、夫とは話が全然合わない。彼女は退屈しており、「何か面白いことないかな」と、気晴らしを求めている。キルケゴールの言う「美的生き方」派は、つねに時間を持て余して退屈している人々である。そこへ、彼女の元カレでダメになったと思われていた男レェーヴボルグが、俗っぽい本を書いて大当たりし、彼女のところへやってくる。そして、学校時代の元後輩の女性や、判事のくせに女に言い寄るのが大好きなタチの悪い友人ブラックもやってくる。そこで、てんやわんやになるのだが、みんな自分勝手で、ちょっと変な人たちばかりなので、レーヴェボルグの原稿をヘッダが夫を助けるつもりで焼いてしまったことをきっかけに、事態は悲劇に転化する。(写真下は、テスマン/ブラック/ヘッダと、テア/ヘッダ)


「美的生き方」派の典型はドン・ファンだが、中産階級にも、ずっとスケールは小さいけれど、結婚より恋愛をしたい人々はたくさんいる。彼らのわずか二三日を鋭角的に切り取って、とことん喜劇的に描き、しかし結果は、もっとも強く「美的生き方」派であるレェーヴボルグとヘッダの二人がピストル自殺という悲劇に終る。それでもイプセン自身は、「美的生き方」派に共感しているのだろう。ヘッダがこれほど愛おしく、我々は彼女に共感することから、それが言えると思う。この上演は音楽の使い方がとても上手い。ヘッダがかけるレコードは軽快なポップスばかりだが、舞台全体に通奏低音のように流れるのは、シューベルトピアノソナタ弦楽四重奏「ロザムンデ」で、しみじみと悲しい。「美的生き方」ができるのは、貴族のように、一部の選ばれた人々のみで、しがない庶民が真似てもなかなかねぇ、とイプセンは言いたいのだろうか。ちなみに、ヘッダ役のイモラ・ケズディは北欧美女のような顔立ち。私は最前列の座席だったので、ベルイマン映画を思い出した。


追伸 :原千代海『イプセン 生涯と作品』を読んでいたら、「イプセンの最高傑作『ヘッダ・ガブラー』」とありました。やはり重要な作品なのですね。原氏はベケットにつながる線をこの作品に見ています。ディスコミュニケーションが前景化されているという点で、チェホフの『三人姉妹』にも不条理劇的なところがあり、イプセンもチェホフも20世紀演劇の「生みの父」なのですね。