[オペラ] ヴェルディ《ドン・カルロ》 ロッテ・デ・ベア演出

[オペラ] ヴェルディドン・カルロ二期会 東京文化会館 10月14日

(写真↓上は第3幕、歌うエボリ公女[手前]、下は同、粛清の場面、後方に立っているのは囚人たち)

ロッテ・デ・ベア演出の非常に斬新な舞台。2019年シュトゥットガルト歌劇場で初演されたものの再演。2014年に新国で見た伝統的演出の《ドン・カルロ》と違い、こちらは今から20~30年後の近未来の話だという。王子カルロと王女エリザベッタの悲恋が軸ではあるが、権力闘争、革命、父と子の葛藤、王族たちの「公共的・国民的性格」の問題性など、シラー原作に劣らない多様な要素が前景化された一大叙事詩になっている。しかし本作は人間関係が複雑で、初めてこのオペラを観た人は何が何だか分からないだろう。ヴェルディの原作にない要素もたくさん仕込まれており、全体を通じて性愛が強調・前景化されているので、ヴェルディにないシーンも多い。第三幕には、ロシアのフェミニストたちがプーチンに反抗した「プッシー・ポルカ」(ヴィンクラー1959~作曲)が使われている。また、シラーにもヴェルディにもない「子ども」がたくさん登場する。父と子の葛藤を強調しているのだろう。たしかにシラー原作を読み直してみると、フィリポ二世と王子カルロスとの葛藤は重要な柱になっている。(写真↓)

ジェンダーと権力性の錯綜した関係が、シラーにもヴェルディにも意識されていたことは間違いない。シラーの戯曲はもちろんだが、ヴェルディのオペラにも<政治>の文脈が大きく設定されている。考えてみるとホメロスイリアス』は、戦争と性愛を主題にしているわけで、文学や芸術の一番根本のテーマはそれなのかもしれない。(写真↓は、衛兵に捉えられる王子カルロ)

今回も、ヴェルディの音楽の素晴らしさに感嘆したが、ヴェルディの音楽は、カント美学の概念で言うと、<美>に加えて<崇高>の色彩がある。音の<厚み>が素晴らしく、どの音楽も「大地から湧き上がる」ような感じて、モーツァルトの「天上的」な感じとやや違う。モーツァルトの場合、音楽は(『魔笛』を除いて)ほとんどが<自由な遊びとしての美>だが、ヴェルディは重みのある<崇高美>なのだと思う。愛も叙事詩となれば、崇高のニュアンスを帯びる。カルロとエリザベットは、「私たちの地上の愛は一日で終わってしまったけれど、天国で永遠の愛を成就しましょう」と歌う。とはいえ、宗教裁判長は悪役のように描かれているから、ヴェルディカトリックをどのように考えていたのか、興味深い。