美と愛について(6) ― 恋に陥る瞬間、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

美と愛について(6) ― 恋に陥る瞬間、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

f:id:charis:20200206051546j:plain

 前回の『ロミ・ジュリ』では、and palm to palm is holy palmers’ kissと恋人たちが手を合わせる仕草が美しかった。人は恋に陥る瞬間に手が動くのかもしれない。だが、ロミオもジュリエットもある意味では恋愛強者である。だから初めて互いの姿を認めてからファーストキスまで2分強だった。でも、すべての人が恋愛強者なわけではなく、相手に愛を感じてもそれを表現できない恋愛弱者も存在する。つまり、恋なんてできそうもない不器用な男女もいるのだ。そういう恋愛弱者にとって、「恋に陥る瞬間」はどんな感じだろうか。川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(2011)は、その瞬間を美しく描いている。(引用頁は講談社文庫版)

 恋愛経験もないとても地味な35歳の女性が、主人公の「わたし」。偶然知り合った高校の物理教師の58歳の初老男性「三束(みつつか)さん」に片思いになる。彼から「光」の物理学について教えを受ける。酒を飲まないと男の人と話すことができないほど内気な「わたし」は、悶々と苦しんだあげく、彼の誕生日にお祝いの会食を企画する。食後、夜道に立つ二人のどちらからともなく、手が触れ、「わたしたちは指と指の背をふれあわせたまま、動かなかった」(p320)。彼が指先を握り返してくれる。思わず、「三束さん、わたしは三束さんを、愛しています」と告白してしまう。みるみるうちに涙が溢れ、顔をぐしゃぐしゃにして泣いてしまう「わたし」。「彼は何も言わずに、わたしに手をにぎられたまま、わたしのまえに立っていてくれた」(p322)。口づけがあったわけでもない。でもこれこそが恋なのだ。告白のすぐ直前は、本書で最も美しい箇所なので、引用してみよう。

 

「風が吹いていますね」わたしは手で空気をかきまぜるようにして言った。「夜なのに、こんなに影がはっきりとみえるんですね」

「そうですね」と三束さんは言った。おおきな風がまたひとつ吹いて、三束さんの耳のうえの髪が額に覆いかぶさった。

「三束さん、ここには何もないんでしょうか」わたしは三束さんの顔をまっすぐにみて言った。

「ここというのは」

「ここです」とわたしは三束さんと自分の体のあいだを手で示して言った。

「色々あります」と三束さんは言った。

「手を動かすと、こう、何か感触があるでしょう?」

「あります」とわたしは両手をぐるぐるさせて言った。

「あるでしょう」と三束さんも手で円をかくように動かした。「空気の移動みたいなものを、感じませんか」

「感じます」とわたしは言った。

「粒子に触れてるんですよ」

「粒子に」とわたしは高い声で言った。

「そうです。粒子に」

わたしと三束さんはそのまましばらくのあいだ、上下左右に両手を動かしていた。・・・それからまたおおきく風が吹いた。ひとつの影のなかで、わたしたちはみつめあった。 (p318~320)

 

 二人を隔てている空間の「ここ」は、無のように見えるが、物理学的にはいろいろな粒子で満ちている。両手をぐるぐるさせて粒子に触れる二人。何という美しい愛の光景だろう!川上未映子は、身体の触れるきわめて微細な表現に卓越している。たとえば、「わたしたちはお互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら、わたしは三束さんの記憶につまさきをそっと入れてゆく思いだった」(p237)。恋に陥るとき、二人は互いに相手を美しいと感じる。しかしその美しさは、静止した肉体そのものにあるのではなく、生きて動くその様態の中にある。ゲーテに『親和力Die Wahlverwandtschaften』という恋愛小説があるが、「親和力」とは、もともとは化学の概念で、特定の原子や分子が互いに集合し接合する動態的な力を意味する。それをゲーテは男と女が恋において惹かれ合う力に喩えた。真夜中の恋人たちが両手をぐるぐるさせて空気という粒子に触れるとき、二人は、そこに働く「親和力」によって、空気という微粒子を介して互いの身体に触れ合っている。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『魔笛』の三人の天使がパミーナを救うところ、パミーナもパパゲーノも死を賭けるからこそ愛を恩寵として与えられる(5分半)。

https://www.youtube.com/watch?v=aFxTbwK7I8s