美と愛について(7) ― 恋に陥る瞬間、ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』

美と愛について(7) ― 恋に陥る瞬間、ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』

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(本の表紙↑、二人はどちらも手先を触れ合っている)

 ゲーテ『若きヴェㇽテルの悩み』は23歳のゲーテの実体験をもとに書かれている。「純愛小説」として名高いが、青年ヴェㇽテルがロッテという美しい娘と恋に陥ってゆく過程がきわめて的確に描かれている。前回までに見た『ロミ・ジュリ』『真夜中の恋人たち』などでも、恋に陥る身体の先兵は、掌、指先、つま先、唇などであったが、『ヴェㇽテル』ではそれが一層先鋭に表現されている。また、恋愛を論じたユニークな書であるロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(1977、三好郁郎訳1980、みすず書房)では、一番多く扱われているのが、ゲーテ『ヴェルテル』である。そちらも合せて検討しよう。以下、ゲーテの引用は旺文社文庫(井上正蔵訳)から、それ以外は、バルトの本から引用する(「ウェルテル」という表示もバルトの訳書に従う、どちらも数字は訳書頁)。

 

まず、ウェルテルが初めてロッテを見た時のことは、こう書かれている。

>・・・玄関に足を踏み入れたとたんに、今まで見たこともない、うっとりするような光景が目に入った。玄関のホールに子供が六人、見るからに美しい中肉中背の娘のまわりに群がっていた。その娘は清楚な白いドレスを着て、腕と胸にピンクのリボンを付けていた。(29)写真下↓

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 そして、ウェルテルは一瞬にして恋に陥り、それ以来、しげしげとロッテの所に通う。二人はまずダンスパーティで一緒に踊った。

>三回目のイギリス舞踏のとき、ロッテと僕は二番目の組になった。列の中を踊りぬけ、僕は言い知れぬ嬉しさにひたって、ロッテの腕に、そしてあふれるばかりの純粋な喜びをありありと浮かべている瞳に心をうばわれていた。(36)

  そして、ウェルテルの指先やつま先が、ロッテのそれに触れるとき、彼は「火にさわったように」感じるようになった。

ふとこの指があの人の指にふれるとき、この足がテーブルの下であの人の足に接するとき、僕は全身の血がわななく。火にさわったときのように、急に身を引いてしまうのだが、不思議な力が僕を前に引き寄せ、僕の全感覚がもうろうとしてしまう。ああ、それなのに、彼女の無邪気さ、彼女の天真らんまんな心は、こうしたひょっとした親しみが、どんなに僕を悩ますか知らないのだ。それどころか、話し合っているうちにその手を僕の手に重ね、話に身が入ると乗り出して、あの唇の清らかなすばらしい息吹が僕の唇に触れそうになるとき、僕は雷に打たれたときのように、今にも倒れそうになる。(59f)

  ロッテは、小鳥を飼い、可愛がっている。

「口うつしでも餌を食べますわ」と言って、ロッテは、パンくずを少し[自分の]唇にのせて小鳥に与えた。その唇は、無邪気にほほえんで、愛の歓びにあふれているばかりだった。僕は、思わず顔をそむけた。ああ、こんなことをしなくたっていい!こんなにすばらしい無邪気な幸福の場面を見せつけて、僕の想像力を刺激するなんて!(126)

あやうく彼女の首に抱きつこうとしたことが、何度あっただろう! 愛らしい仕草を次々に見せつけられながら、手を出してはいけないなんて。こんな気持ちは、ああ、けだかい神さましか分るまい。(133)

 そしてウェルテルは、ロッテを描いた影絵(シルエット)を、自分の部屋の壁に飾った。物語の最後、彼は自殺の直前に、ロッテに当てた手紙でこう書いている。

>なつかしい影絵(シルエット)!これは形見としてあなたに残します。ロッテ、どうか大事にしてください。僕は外に出るときも、家に帰ったときも、いつもこの影絵に何千回となく口づけをし、何千回となく挨拶の目くばせを送ってきたのです。(199)

 

 以上が、ウェルテルがロッテに恋に陥ったときの状態であるが、掌、指先、つま先、唇の生き生きした動き、そしてロッテの身体が影絵というフェティッシュな広がりをもっていることが分る。ロラン・バルトはこれを下記のように分析する。

  ロッテにはすでにアルベルトという婚約者がいる。つまり、ウェルテルのロッテへの恋はまったく希望がない。ウェルテルはどうするのか。バルトは語る。

>おまえはシャルロッテを愛している。少しでも希望があるのならおまえは行動する。まったく希望がなければ行動しない。「健全」なる主体のディスクールとはそうしたものなのだ。要するに、あれか、これか、なのである。ところが、恋愛主体はこう答える(ウェルテルがそうしているように)、私は二つの選択肢の間に滑り込もうとするのだ、と。つまり、希望はまったくないけれど、それでもなお私は・・・あるいはまた、私は断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。(93)

 [つまり、ウェルテルの恋は、「あれか、これか」の間に滑り込み、漂流する恋となる]

『若きヴェルテルの悩み』のテキストは、こうであった。

>世の中には、あれかこれかで片付くことはめったにない。感情と行為の間には、いろんな度合いのニュアンスがある。・・・僕が、あれかこれかの間をすり抜けようとつとめても、悪く思わないでくれたまえ。(67)

  では、指先と指先、つま先とつま先の接触はどうだろうか。バルトは語る。

>ウェルテルの指がうっかりとシャルロッテの指に触れ、二人の足先がテーブルの下で出会う。ウェルテルは、こうした偶然のもつ意味など考えずにすますこともできたはずだろう。かすかな接触地帯に肉体的な注意を集中し、あたかもフェティシストのごとく、相手の反応のことなど気にもかけず(フェティッシュとは、神 ― それが語源なのだ ― のごとく、答えを返すことのないものである)、そうした指の一部、動かぬ足先の一部を享楽することもできたはずであろう。ところが、ウェルテルはまさしく倒錯者ではない。彼は恋をしているのだ。そこで彼は、たえず、いたるところで、まったく何でもないものについてまで意味を創り出す。そして、そうした意味こそが彼を戦慄せしめている。彼は意味の炎に包まれている恋する者には、あらゆる接触が、答えやいかにとの問いを惹起する。肌には答えを返すことが要請されているのだ。(100)

[直接にロッテの指に触れるとき、ウェルテルはフェティッシュではない。ロッテの肌から答えを返してもらいたいのだから。恋する者は肌で対話する。でも、ロッテの肌に触れていないとき、ウェルテルはフェティッシュになる、バルトは語る]

 >ウェルテルはいくどとなくフェティシズムの身振りを繰返している。誕生日にシャルロッテから贈られた飾紐に口づけ、彼女がよこした手紙に口づけ(インクを乾かすために撒かれた砂が唇につくのも厭わず)、彼女の手が触れたピストルに口づけている。愛する人が放射する力をさえぎるものなどありはしない。わずかでも触れられたものは、たとえまなざしを向けられただけでも、この力の浸透を受ける。・・会えない日、ウェルテルは召使を彼女のところにやっている。[戻ってきた]召使は、シャルロッテのまなざしを向けられたので、彼女の一部となる。・・・このようにして聖別された(神域に祭られた)オブジェは、どれもみな、昼間の光を吸収して闇の中でもひとりでに輝くという、あのボローニャ石のごときものとなるのだ。ラカン(そうしたオブジェは、「母親」に代わって「ファロス」をそなえる。これと同一化するのだ。ウェルテルはシャルロッテに贈られた飾紐といっしょに埋葬してほしいと望んでいる。つまり墓の中のウェルテルは、まさしくそこで呼びさまされる「母親」と添い寝するのである)。(260)

[ラカン的に解釈すれば、自殺するウェルテルにとって、ロッテはまさしくそこで「添い寝する母親」なのである]

 

 次回は、トーマス・マンの小説から、恋する相手の肉体のフェティッシュな契機について考察したい。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『フィガロの結婚』の、ケルビーノの「着せ替え」シーン、スザンナと伯爵夫人が彼を激しく愛撫、ザルツブルク音楽祭2006のやや過激でエロい演出。シェーファーのケルビーノ、ネトレプコのスザンナ。これだけ演技しながら歌うのは大変だろう(3分半)。

https://www.youtube.com/watch?v=PbdHO3OYpV8