美と愛について(10) ― 恋に陥る瞬間、マン『ヴェニスに死す』『トニオ・クレーゲル』

美と愛について(10) ― 恋に陥る瞬間、マン『ヴェニスに死す』『トニオ・クレーゲル』

(写真↓は、ヴィスコンティ監督の映画『ヴェニスに死す』1971で、美少年タッジオを演じたスエーデンのビョルン・アンドレセン、オーディションでヴィスコンティと並ぶ写真も)

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 作家のアッシェンバッハが、ヴェニスでタッジオに一目惚れするシーンは次のように描かれている。(岸美光訳『ヴェネチアに死す』光文社古典新訳文庫から引用)

 >アッシェンバッハは、[ホテルのテラスで偶然見かけた]この少年が完璧に美しいことに気づいて愕然とした。うち解けないその顔は青白く優美で、蜂蜜色の髪の毛に囲まれ、鼻筋は真っ直ぐ下に通って、口は愛らしく、優しく神々しいまでに生真面目な表情を浮かべ、もっとも高貴な時代のギリシア彫刻を思わせた。形式が最高の純粋さで完成されながら、一度きりの個人としての魅力を持っている。これを見ると、生身の人間であれ、造形芸術であれ、これほどに恵まれた実例には出会ったことがないと確信された。p50

  「高貴な時代のギリシア彫刻」のような、「神々しいまでに」美しい少年。ここを読んだとき私は、古代ギリシアの彫刻家プラクシテレスのアポロン像↓を思い出した(ルーヴル美術館)。神の創った芸術作品としての人間の肉体の、もっとも美しい姿は、マッチョな男性や成熟した女性ではなく、少年や少女のような中性的な肉体なのではないだろうか。プラクシテレスのアポロンは、前から見ると少年、後から見ると少女のように見える。

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>少年はガラスのドアから入り、部屋を斜めに横切って静かに姉たちのテーブルに向かった。その歩き方は、上体の起こし方も、膝の動きも、白い靴を履いた足の運び方も、並外れて優美だった。ひじょうに軽やかで、優しいと同時に誇らしげで、子供らしい恥じらいによってさらに美しさを加えていた。・・・少年は、きょうは青と白のストライプの軽快な水兵服を着ていた。生地は木綿で、胸のところに赤い絹のリボンを蝶結びに付け、シンプルな白い立ち襟で首の所がとめてあった。この襟は・・・比類のない愛らしさで頭部の美を花開かせていた。それは、パロス島産大理石の黄色みを帯びたつやを持つエロスの頭だった。繊細で生真面目な眉、まっすぐにたれかかる巻き毛に暗く柔らかく覆われた耳とこめかみ。57f.

  マンの記述は、身体の優美な動きだけでなく、襟などの服装の一部、耳やこめかみなど、身体の小さな一部に注目している。そして何よりも、アフロディーテの息子である「愛の神」、少年エロスの名前に言及している。また、「エロス」が、「髪に覆われた耳とこめかみ」に強く感じられることが、マンの特徴である。

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 『魔の山』では、ショーシャ夫人の、腕の肘、手を挙げた腋の下、足の膝、そして反対側の「ひかがみ」に、また『すげかえられた首』では、娘シーターが「首筋で両手を組んだりすると、そこに柔らかなくぼみが現れ、また繊細な腋の下が暗く開かれる」ことに、マンは強いエロスを見出していた。『ヴェニスに死す』でも、タッジオの耳やこめかみの他に、もちろん「ひかがみ」も注目されている。

>体をぴったりと覆う水着を通して、肋骨の華奢な線と均整の取れた胸の輪郭が見え、腋の下は彫刻のようにまだ滑らかだった。ひかがみはつやつやとして、そこを走る青い血管が、少年の体を何か透き通った素材からできているように見せていた↓。86

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 娘シーター、ショーシャ夫人、少年タッジオの肉体の魅力として描かれる要素は、このように共通している。そしてまた、マンの代表作の一つ『トニオ・クレーガー』では、主人公トニオが恋した少女インゲボルクは、次のように描かれる。(平野卿子訳、河出文庫より引用)

>[トニオは]どんなふうに恋に落ちたのか、・・・ある晩、とある照明の下でインゲを見た。友だちとしゃべりながら、なにやらはしゃいだ調子で笑って首をかしげ、その手を、とくに華奢でもなく優美でもない小娘ふうの手を、独特のしぐさで頭の後ろへ持っていった拍子に、白い紗の袖が肘からずり落ちるのを見た。・・・トニオはうっとりとしてわれを忘れた。・・・それははげしい感情だった。29f.

 それだけではない。トニオは約十年後に、大人になって結婚しているインゲをホテルの食堂で偶然に見かける。

>インゲボルクが、はしゃいだ調子で笑って首をかしげ、その手を、とくに華奢でもまく優美でもない小娘ふうの手を、独特のしぐさで頭の後ろへ持っていった拍子に、薄地の袖が肘からずり落ちるのを見た。すると、鋭い痛みとともに激しい郷愁が襲ってきた。それは、ひきつった顔を見られまいとして、思わず暗闇に向かって後ずさりしたほど烈しいものだった。119f.

 

 我々は、恋に陥るとき、相手の身体のどこにエロスを感じるのだろうか? 人によって違うだろうが、少なくともトーマス・マンにおいては、それはきわめてはっきりしている。

  文学作品における「恋に陥る瞬間」には、興味深い記述がたくさんあるが、続きはまた後にして、次回は理論的考察に戻りたい。美の起源としての、ダーウィンの「性選択」を見ることにする。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『フィガロの結婚』のケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」、歌うのはリナ・シャハム(3分)

https://www.youtube.com/watch?v=1nRObrCLKNs

この歌、ヴァイオリン二重奏にしてもとても美しい(3分)

https://www.youtube.com/watch?v=5gHhZPr5ADY