[読書]山口つばさ『ブルーピリオド』

山口つばさ『ブルーピリオド』(講談社)

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絵画表現の意味をめぐる苦闘を描く

絵を描くことの素晴らしさに目覚めた高校生が、東京藝大を受験する物語。油画科は競争率20倍強なので、「受験絵画」は技術の習得がメインになるのだが、高校美術部の佐伯先生と予備校の大葉先生という二人の女性教師が素晴らしい。主人公の八虎が、今どういう段階にあり、どこが問題なのかを的確に掴み、もっとも適切な指導をする。初心者は表現技術として使える武器が乏しいが、その武器の乏しさをプラスに転化することもできるのだ。激しい競争倍率なので、どうしても他者との競争ばかり意識して誰もが「上手い絵」を描こうとする。だが、「1位の絵じゃなくて、自分の<最高の絵>を目指さなきゃね」と、大葉先生は八虎に言う(第4巻)。これが、彼の背中を大きく押すことになった。初心者の彼が現役で藝大に合格できたのは、結局、この段階で<表現すること>の本質を掴めたからだろう。ニーチェは「芸術の本質は、我々の生Daseinを完成させることにある」と言った。大葉先生も同じことを言ったのだ。「構図」はあくまで表現の「武器」であって「テーマ」にはならない(第3巻)。高校美術部の先輩女子が言う「絵の起源って、諸説あるけれど、<祈り>じゃないかしら」も(第2巻)、芸術の本質を撞いている。八虎の友人でありライバルでもある美大を目指す若者たちは、皆それぞれに個性的で素晴らしい。誰もが、<表現すること>の意味を巡ってすごく苦しみながら、何人かは「自分の絵を信じる」ことができるようになる。藝大の油画科の入試は、素描+油絵+スケッチブックの三点の提出で、スケッチブックはそのエスキースから、受験生が「絵のコンセプト」や「表現のテーマ」をどのように捉えているかを見るものだ。画家は<自分が何をどう表現するのか>を自分に意識化・準言語化できてはじめて、非言語的な絵によって表現できるのだ。

第7巻以降は、藝大入学後の話だが、八虎だけでなくほとんどすべての新入生が、藝大に入ったのに自信を失って動揺する。なぜだろうか? おそらく、藝大受験までは、伝統的な西洋の油絵様式に忠実な指導が行われたが、藝大では、教授はすべて「現代アート」の立場から指導する。おそらくここに、現代絵画の<表現>を巡る最大の争点があるのだろう。