オペラ『夕鶴』

charis2016-07-03

[オペラ] 團伊玖磨「夕鶴」 新国立劇場・大ホール


(写真右は、つうを歌う澤畑恵美、下は、機織り部屋前のつうと与ひょう(小原啓楼)、そして子供たち、舞台はシンプルで美しい)


『夕鶴』は山本安英が演じる演劇版を、中学生の頃に見た記憶があるが、オペラ版は初見。1952年の初演以来、世界各国で800回超の上演が行われたとは驚きである。メキシコやチェコでは日本人を含まない現地の歌手が日本語で歌うという。日本からの「出張公演」ではなく、現地の歌劇場のレパートリーになっているのだ。今回、この作品がそれほどに傑出したものであることが良く分かった。


何よりもテーマが普遍的で、それが美しくシンプルに物語化されており、世界中のどこでも直ちに理解される。これは普遍性のある神話であって、日本的エキゾチズムではない。見てはいけないと言われた妻の姿を見たために、異類の生命であった妻が故国へ帰ってしまったという「異類結婚譚」は、世界に幾つもある神話や昔話のはずだ。自給自足で閉じた小さな共同体に、商品経済が浸透するにつれて、信頼と愛にもとづく親密な共同体が崩壊し、貨幣を媒介とした生産効率性の高い社会に変ってゆく。それは人間と人間の関係が、信頼と愛にもとづく関係から、利潤を尺度とする冷たい経済的関係に変貌することである。これは我々の祖先が皆経験してきたことであり、だからこそその悲しみは、我々の心に突き刺さる。恋愛も結婚も家族も友人もそうだが、信頼や愛や友情など共感に満ちた情緒的な関係こそ、我々が幸福に生きるための不可欠の条件である。だが、それがもはや不可能になってしまったこと、それを真正面から提示するのが『夕鶴』である。


それにしても、与ひょうの皮袋から出てきた「貨幣」というものを初めて目にするつうの、あの驚きと悲しみは強烈だ。この「貨幣」が彼女と与ひょうを引き裂いていることを、つうは直観的に理解する。商品経済のアレゴリーである運づや惣どと、つうとの会話が突然通じなくなってしまうのも痛々しい。つうが鶴だから言葉が通じないのではなく、彼らが別種な人間になってしまったから通じないのだ。与ひょうは、最初から最後まで素朴で愚かな若者である。彼は、自分が新たに持ち始めた欲望の本性を、自分で分かっていない。おそらく、この愚かさは、我々の祖先もすべてそうだったであろう。与ひょうは、主観的にも客観的にも、どこまでも「善良な人」である。つうが、与ひょうを失いたくないので、自分が死ぬかもしれない二枚目の布を織ることを決意するシーンは、とても悲しい。愛し合っている夫婦の中に突然生じる「権力関係」。つうの歌う「愛の主題」の何と悲しく美しいことだろう。


プログラムにある長木誠司の解説は非常に優れたもので、『夕鶴』が稀有に成功した「創作オペラ」である理由がよく分かる。オペラの歌詞を詩的韻文に作る専門家である「台本作者」がプッチーニ以降にはほとんどいなくなり、歌詞が散文化すると、メロディーの付け方が難しくなってくる。少し前の山田耕筰『黒船』は、七五調の浄瑠璃形式の歌詞で処理したのだが、『夕鶴』は、与ひょう、運づ、惣ど、子どもたちは日本のどこのものでもない「方言」をしゃべらせることによって、歌詞の韻文性を処理している。そして、オペラを観ているときは気が付かなかったのだが、鶴のつうだけが標準語をしゃべっているのだ!この指摘には本当に驚いた。そして木下順二の戯曲が、ギリシア悲劇など西洋演劇の基本に忠実なこと、そしてオペラ化に際して、木下は團に科白を「一言一句も変えないこと」を条件にした。『夕鶴』の傑作は、創作上の稀有な条件が幸運な実現をみたからなのである。上演は、大伴直人指揮、栗山民也演出。


下記の3分間の録画があります。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/150109_006155.html