[演劇] 三好十郎『斬られの仙太』

[演劇] 三好十郎『斬られの仙太』 新国立劇場 4月7日

(写真↓は、百姓の仙太郎(伊達暁)と、水戸天狗党の武士、加多源治郎(小泉将臣)、この二人が劇の最重要人物)

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三好十郎を見るのは、『殺意―ストリップショウ』『地熱』に続いて、これが三作目。どれも主人公が、政治に参加して非常な苦しみをなめる、という点が共通している。おそらく三好の主題は、人間が否応なしに状況に巻き込まれてしまい、必死に状況に立ち向かおうとするけれど、うまく対応できず、問題も解決しない、という苦しみを描くことにあるのだろう。恋愛ですら、二人が必然性あって愛し合うというより、二人とも状況に巻き込まれるなかで出会う受動的な恋愛だ。(写真↓は、仙太郎と彼の江戸の恋人のお蔦)

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私がこれまで見た三作は、どれも叙事詩的な広がりをもっていた(一人芝居の『殺意』でさえ)。これは三好の基本設定が「政治」にあるからだからだろう。本作は正味3時間40分だったが、三好の原作通り上演すると7時間近くかかり、これは短縮版。80人の登場人物が必要だが、本作は16人が何役も兼ねる。明治維新を挟んで、天狗党の乱、つまり1864年筑波山挙兵あたりの状況が、水戸藩士の動きを中心に詳細に描かれるので、政治劇とも言える。そして終幕、話は20年後に飛び、斬られたけれど生き延びた仙太一家の稲作場面で終るのだが、田圃自由民権運動家や政府警官がなだれ込んでくるので、これも政治劇だ。本作の初演は1934年で、築地小劇場。仙太役は滝沢修。左翼文化人への弾圧が強まり、三好自身が政治状況に翻弄された。だから仙太は三好でもあり、胸が痛む。

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当時、筑波山挙兵を指揮した天狗党の頭領は武田耕雲斎(62歳)と藤田小四郎(23歳)だからら、ひょっとして本作の幾人かは実在のモデルがあるのかもしれない。お妙の父である甚伍佐は豪農だから、当時、たくさんの豪農や百姓も武士と一緒に討幕運動に参加したという史実にも合致する。しかし本作の焦点は、結局、武士はどこまでも武士の利益で動き、窮乏した百姓の味方のような顔をしても、最後は裏切り、階級的連帯は不可能だということを仙太が悟ることにある。自らが主体的に政治運動に参加するのではなく、巻き込まれるという仕方で参加した者は、最後は運動そのものに裏切られる、というのが三好の一番言いたいことなのだろう。その意味では、大局が見えず、独りよがりの政治観しかもてない尊王攘夷水戸藩士たちが、とても上手く描かれている。

 演出の上村が小川絵梨子に語っているように、侍や渡世人は究極的には「斬る・斬られる」ことが生き方の核だが、百姓は、農地に作物を「育む」ことが生き方の核になる、ということを示すのが本作のもう一つの眼目で、それが劇全体を感動的なものにしている。しかし、「育む」ことに生きる仙太の生き方は、政治から距離を取ることであり、政治的無関心になることである、という終幕は、なにか悲しい。仙太は、自由民権派を、維新で利益を取り損ねた負け組武士の不満運動としてしか捉えていない。

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あと、「天狗党」のことだが、実際に「天狗」の面をかぶったわけではなく、これは劇の創作なのだろう↑。「天狗党」という名称は、水戸藩士たちは「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ので、彼らは天狗党と呼ばれるようになった。彼らが自分たちを「天狗党」と呼んだことはないそうだ(私がネットでちょっと調べた限りでは)。とすれば、劇でも、天狗の面は高慢の象徴なのだということが分かる何かがほしかった。