[オペラ] サーリアホ 《Only the Sound Remains – 余韻》

[オペラ] サーリアホ 《Only the Sound Remains – 余韻》 東京文化会館 6月6日

(写真は、今回のものがまだないので初演から、「羽衣」と「経正(つねまさ)」、ただし舞台装置は今回とは大きく違う)

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サーリアホはMETライブで《遥かなる愛》を観たので、これが二回目。《遥かなる愛》は、ドヴィッシーが作った《トリスタンとイゾルデ》のようだったが、2016年初演の本作も、素晴らしい傑作だと思う。「経正」「羽衣」が各45分の二部構成だが、「羽衣」は特にいい。繊細な音色の響きがとても美しく、あたかも透明な空間に音楽が少しづつ満ちてゆくのが目に見えるようだ。帰宅して元の謡曲を読み直したが、ほぼ歌詞は同じで、言葉と音楽とがダンスの身体表現とぴったり重なる。数ある能の中でも「羽衣」は特に美しい作品だが、それがほとんどそのままオペラになって、さらに美的になったように思う。バス・バリトン(ワキ)とカウンター・テナー(シテ)がそれぞれ歌い、さらにダンスを一人が踊るから、シテが二人いるわけだ。初演ではダンサーは黒人女性のノラ・キンボールだったが、今回は日本人の森山開次。帰宅して初演のDVDを観たが、ダンスはどちらも素晴らしい。(写真下は、手前から漁師の白龍と、天女のダンサーと歌手、その下は、羽衣を取り合う天女と漁師)

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野上豊一郎編の謡曲「羽衣」解説の冒頭に、「性的連想を超越した天人を下界へ下して幽玄無上の舞を舞はせることが主眼」とある。それで分かったのだが、天女はたしかに女性だが、最初は彼女を性的眼差しで見ていた漁師の白龍が、彼女のあまりの美しさにそれを恥じ、彼女をもはや性的連想で見なくなる、というのが主題なのだ。最初は「返さないぞ」と言い張っていた羽衣を、彼女に返し、羽衣をつけた美しい舞を見つめるのは、「性的連想を超越した」次元に美が存在することを意味している。能の「羽衣」は『風土記』の羽衣伝説に基づいているが、各地に残るその羽衣伝説は、「天女が海辺に降りてきて、羽衣を樹に掛け、水浴びをする」というものだ。つまり羽衣を脱いだ天女は裸身かそれに近いはずで、当然、漁師の白龍は彼女を性的な眼差しで見ないわけにはいかない。初演では、それがよく分かるように演じられている。初演では、今回と違って、実際に羽衣の実物が登場するので、白龍にとって羽衣は天女のフェティッシュな代替物でもあり、彼はそれを自分の体になすりつける。(写真下は、羽衣を返してもらえず、ひたすら悲しみを表現する天女)

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今回の舞台では、物体としての羽衣は登場せず、巨大な長方形の枠に張られたごく薄い網のようなもので羽衣を抽象的に表現している。天女を男性ダンサーが踊るのも含めて、「性的連想を超越する」という原作の主題にさらによく適っているように思われる。初演のピーター・セラーズ演出と、今回のアレクシ・バリエール演出は、いろいろとコンセプトが違うのだろう。とりわけ全体の舞台装置は、空間の奥行きが表現されている今回の方がずっといい。最後に天女が月の世界に帰ってゆくシーンはもちろん、最初から「ここ三保の松原」(歌もその通り発話する)との天界との隔絶した距離を空間性の広がりで表現することが必要だからだ。本作は、能の原作の謡(うたい)を男女4人のコーラスにうまく分担させ、器楽音も響きの美しさが素晴らしく、能の大小鼓や笛の質感を思わせるところがある。オペラという様式が、能の主題を、能以上に美しく表現できることを示したという点で、本作は特筆されるべき作品だろう。カーテンコールの最後に、会場にいたサーリアホご本人にスポットライトが当たった↓。やはりオペラは作曲者が主人公なのだ。プログラムノートによれば、サーリアホは本作のタイトルについて、こう述べている。「私たちはこの世界で様々なものに取り囲まれています。その囲まれたものの本質・・・最後に残るものは何かというと、風であったり海であったり、そういうものの気配であったりする、そういう感覚ですね。・・・どこかへ連れて行ってくれる存在が、最後にかき消えて、音だけが残る。そういう誌的なものにしたかったのです」

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短いですが、初演の映像が。

https://www.youtube.com/watch?v=kMxbhf6btYg