[演劇] 森見登美彦原作 『夜は短し歩けよ乙女』

[演劇] 森見登美彦原作『夜は短し歩けよ乙女』 新国立劇場 6月11日

(写真上は、京大「詭弁論部」OBの老人たちと楽しく酒を飲む京大一年生の「乙女」(久保史緒里)、写真下はもう一人の主人公、京大三年生のサークルの「先輩」(中村壱太郎)、天然ボケ少女の「乙女」と、過剰な自己反省ばかりの屈折した旧制高校生的キャラの「先輩」、この二人の主人公の人物造形が絶妙で、ついに二人の間に恋が生まれるというハッピーエンド)

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森見の小説を、劇団「ヨーロッパ企画」の上田誠が脚本化・演出。「乙女」はアイドル女優だが、「先輩」は歌舞伎俳優、この組み合わせが絶妙。私は原作の小説が大好きなのだが、四つの大場面からなる原作がまさか演劇になるとは思わなかった。しかし、歌舞伎の様式化した表現と、ミュージカル的要素とを取り入れて、原作の一番いいところがちゃんと演劇の軸になっている。『夜は短し歩けよ乙女』は、優れた恋愛小説であるが、技法的にはマジックリアリズムあるいはシュールリアリズムの要素がある。猥雑でわちゃわちゃした祝祭的気分に満ちた男女の関係性の中から、最後に、このうえなく高貴で美しい純愛の美がスーッと立ち上がる。これが本作の魅力の核心といえる。フェリー二の『道』や、唐十郎の『少女仮面』がそうであるように。本作の魅力は、ありそうもない奇妙な人たちの只中にぶち込まれた天然ボケ少女が、臆することなく心を開き、その屈折した奇妙な人々と肯定的な関係を作っていくところにある。そしてそのことが彼女のアイデンティティになってゆく。おそらく本当の意味での「愛されキャラ」とは、この「黒髪の乙女」のような女性を言うのだろう。また「先輩」も、「自分は軟派ではなく硬派」だと言い張る旧制高校生的キャラで、とても滑稽なのだが、しかし彼もまた、他者に対して臆せずに心を開いてゆくところが、「黒髪の乙女」と共通している。現代の京大の一年生と三年生に、そんな女子と男子がいるだろうか? ふつう考えるといそうもないけれど、いや、いるかもしれない、きっといるだろうと思わせるところが、シュールに造形された京大と京都という人間関係の空間性なのだ。(写真下は、祝祭気分に溢れた奇妙な人たち)

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そもそも恋愛の核心は、その出会い自体を二人が喜びと感じるという点にある。これは九鬼周造の『いきの構造』や『偶然性の問題』が明らかにしたことであるが、九鬼もまた京都で祇園に入り浸っていた祝祭気分に溢れるオヤジである。恋の本性は、まったき偶然であるその出会いを、当事者が必然と感じるパラドックスにある。『夜は短し歩けよ乙女』の本当の主題は「出会い」であり、あっと驚くようなどんな出会いも、それが肯定的なものとして、出会った者どうしのアイデンティティになっていく。「黒髪の乙女」が作中で繰り返し口にするのが「縁」という語であり、最後は、彼女の生まれて初めてのデートで、今出川通の喫茶店進々堂」(実在するのだ) で「先輩」と会う。進々堂のドアを開けて彼に近づく彼女の言葉で、物語は終わる。「かくして先輩のそばへ歩み寄りながら、私は小さく呟いたのです。こうして出会ったのも、何かの御縁

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