[演劇] 歌舞伎、鶴屋南北『桜姫東文章(下の巻)』 歌舞伎座 6月5日
(写真↓は舞台、桜姫の玉三郎のこのうえない美しさは格別のものがあるが、それ以上に、権助の仁左衛門の色気は筆舌に尽くしがたい、今日の観客は8割が女性だが、歌舞伎に女性観客が多いのは江戸時代からなのだろうか)
4月の「上の巻」は二階席だったが、今回は一階7列という良い席だった。それにしても、全体で7幕9場、実質上演時間が4時間超の長大な作品がよくも作られたと思う(初演は1817年の幕末期)。登場人物も多く、複雑で込み入った筋の展開だが、それ以前にすでに知られて上演された二つの物語を組み合わせたので、観客はついて行けたのだろう。倒錯的エロスの化身のような桜姫と僧清玄、そしてエロスを輝やかせる極悪人の青年、権助、この三人の魅力的なキャラを造形したのが『桜姫』を傑作にしている。しかし、権助も清玄もよく分かるのだが、桜姫だけはどこまでも謎めいている。プログラムノートの玉三郎の説明で、やっと理解できた。すなわち、「桜姫は、他に類を見ない役で、精神的負担のまったくない役だということです。様々なものを抱えた人たちの中にあって、ひとりだけ逸脱しているのです。遊女にまでなっているのに、お家騒動も解決して、あっさり姫にもどっていく。非常に不思議な、とても良いお役です」(p49)。役者本人の「とてもよいお役です」という言い方が面白いが、それにしても、桜姫ほどぶっ飛んだキャラクターは、世界の演劇を比べても珍しいのではないか。彼女は、『桜姫』の劇全体を非常にシュールなものにしている。桜姫は女郎屋にしばらく売られたあと、清玄の幽霊ゆえに「鞍替え」(=女郎屋を替る)を繰り返し、結局、権助のもとに帰されるのだが、彼女はすっかり「強い女」になっており、キップのいいアネゴ肌の娼婦ことばでバンバン話しながら、ところどこにお姫様ことばが混じる場面が、私には一番面白かった。彼女は娼婦とお姫様を兼ねる高度にシュールな統合体なのだ(写真下↓)
清玄の同性愛の相手だった白菊丸の生まれ変りが桜姫であるという清玄の「妄想」は、男女の出会いは前世の縁によるという『源氏物語』以来の前提から、理解できるし、これこそがシュールリアリズムの根本様相の一つだろう。しかし最後、清玄と権助が実は兄弟だったというのは、どういう意味があるのかよく分からない。終幕の、浅草雷門前での大団円は、こんな短時間で見事に纏められる終幕の傑作だ。(写真↓は、清玄の幽霊と桜姫、そして終幕、ほか)
桜姫が清玄の幽霊を迎え、権助を殺すシーン、なんと孝夫・玉三郎の1982年の映像がありました!